Eテレの「100分de名著」を見ながらあれこれ学んでいる。
今月はマルクスの「資本論」、
先月のテーマはブルデュー「ディスタンクシオン」だった。
そこから考える家庭の教養問題、
という話。
今月はマルクスの「資本論」、
先月のテーマはブルデュー「ディスタンクシオン」だった。
そこから考える家庭の教養問題、
という話。
(写真:フォトAC)
【『資本論』を3時間20分で学ぶ】
NHKのEテレ「100分de名著」を楽しんで見ています。世界の名著を一回につき25分、計4回100分で紹介しようという野心的な番組で、夜おそい時間帯(月曜日午後10時25分~10時50分)なのでVTRでの視聴です。
今月はマルクスの「資本論」。
この著作には思い出があって、40年近く以前、私は70年安保闘争の「遅れて来た青年」でしたから社会主義が自然に学べる環境になく、しかたなく友だちと「『資本論』研究会」をつくってまじめに勉強したことがあるのです。ただし私は法学部で経済は門外漢、あとの二人は商学部と経済学部で多少は関わりがあるもののマルクス経済学は素人で、当番を割り当てて3回りか4回り、ページ数にして300ページも勉強したところで諦めて止めてしまいました。難し過ぎて歯が立たなかったのです。
それでも勉強した約300ページはかなり真剣に取り組んだので、大部のテキストのその部分だけは端が真っ黒に手垢で汚れ、それがちょっとした自慢でした。それをよせばいいのに、一番タチの悪い先輩にしてしまい、
「あのなあT(私の本名)。勉強するときは手を洗ってからにしような」
と言われて、それも勉強会を辞めるひとつの理由になりました(傷ついた)。
考えてみれば「資本論」のような難しい本の大海を、水先案内人なしに進もうと思ったことが無謀でした。今回100分で「資本論」を解き明かそうというこれまた無謀な番組を見ながら、同じ無謀でも案内人がいるといないとではこんなに違うのかと痛感させられたのです。
例えば、
「マルクスにおいては『資本』という言葉は特別な概念で、私たちが通常つかう意味での『資本』(資金や財産)を使ってさらに新たな『資本』を生み出すその運動自体のことを言います」
と言われると、「資本論」という題名のとらえ方がまったく異なってきます。普通の意味なら「資本論」は資金や財産に関する話ですが、運動なら「資本が資本を生み出す動きに関する著作」です。また、
「商品を安くするために(中略)労働の生産力を増大させることは、資本の内在的衝動であり、普段の傾向である」
などといった表現も、金や財産に衝動があるというと分かりませんが、「資本を生み出す動き」にそうした衝動があると言われれば、「ああ運動が新たな運動を生み出すのだ」と理解できるわけです。
“資本とは運動のことだ”という表現は『資本論』のどこかに書かれているらしいのですが、そこに気づくにはよほど勉強しなくてはならなかったでしょう。
「結局のところ、勉強は自学自習だ」といった言い方もありますが、自学自習ができるはずの大学生や大学院生でも、学校に行かなくてはならないのはそのためです。
今月はマルクスの「資本論」。
この著作には思い出があって、40年近く以前、私は70年安保闘争の「遅れて来た青年」でしたから社会主義が自然に学べる環境になく、しかたなく友だちと「『資本論』研究会」をつくってまじめに勉強したことがあるのです。ただし私は法学部で経済は門外漢、あとの二人は商学部と経済学部で多少は関わりがあるもののマルクス経済学は素人で、当番を割り当てて3回りか4回り、ページ数にして300ページも勉強したところで諦めて止めてしまいました。難し過ぎて歯が立たなかったのです。
それでも勉強した約300ページはかなり真剣に取り組んだので、大部のテキストのその部分だけは端が真っ黒に手垢で汚れ、それがちょっとした自慢でした。それをよせばいいのに、一番タチの悪い先輩にしてしまい、
「あのなあT(私の本名)。勉強するときは手を洗ってからにしような」
と言われて、それも勉強会を辞めるひとつの理由になりました(傷ついた)。
考えてみれば「資本論」のような難しい本の大海を、水先案内人なしに進もうと思ったことが無謀でした。今回100分で「資本論」を解き明かそうというこれまた無謀な番組を見ながら、同じ無謀でも案内人がいるといないとではこんなに違うのかと痛感させられたのです。
例えば、
「マルクスにおいては『資本』という言葉は特別な概念で、私たちが通常つかう意味での『資本』(資金や財産)を使ってさらに新たな『資本』を生み出すその運動自体のことを言います」
と言われると、「資本論」という題名のとらえ方がまったく異なってきます。普通の意味なら「資本論」は資金や財産に関する話ですが、運動なら「資本が資本を生み出す動きに関する著作」です。また、
「商品を安くするために(中略)労働の生産力を増大させることは、資本の内在的衝動であり、普段の傾向である」
などといった表現も、金や財産に衝動があるというと分かりませんが、「資本を生み出す動き」にそうした衝動があると言われれば、「ああ運動が新たな運動を生み出すのだ」と理解できるわけです。
“資本とは運動のことだ”という表現は『資本論』のどこかに書かれているらしいのですが、そこに気づくにはよほど勉強しなくてはならなかったでしょう。
「結局のところ、勉強は自学自習だ」といった言い方もありますが、自学自習ができるはずの大学生や大学院生でも、学校に行かなくてはならないのはそのためです。
【ブルデュー「ディスタンクシオン」】
「100分de名著:マルクス『資本論』は昨夜が第3回でしたので、全部終わったところで語るべきことがあれば書きますが、今日、話題にしたいのは先月のお題だった、ブルデューの「ディスタンクシオン」です。
いかにも教養がありそうにシレっと書きましたが、実はこの名著、私は番組が扱うまでその存在さえ知らなかったのです。
Wikipediaの説明によれば、
ディスタンクシオン(仏: La distinction : Critique sociale du jugement)字幕付きの社会的批評の判決 )は、1979年にピエール・ブルデューによって手がけられた著書。同年に発行され、1984年に英訳が出版された。著者ブルデュー自身による1963年から1968年にわたる実証研究をもとにした著書であり、フランス文化について社会学的に分析した本である。国際社会学会は1998年にこの『ディスティンクション』を20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊に選出した。
とのことですが、ひとことで言うと、
「私たちの言葉遣いや身のこなし、行動・知覚・評価の仕方、そういったものがすべて自らの学歴や出身階層によって規定されていることを、社会学的に証明した本」
ということになりそうです。
思考や性向は出身階層によって規定されているというのはマルクスやサルトルも言っていることですが、足を使って、アンケートやインタビューといった量的な方法でそれを証明したこと、そして趣味のようなそれらからもっとも自由と思われることまで学歴や出身階層に規定されていると証明したことで、ブルデューは歴史に名を遺した学者だと言えるみたいです。
いかにも教養がありそうにシレっと書きましたが、実はこの名著、私は番組が扱うまでその存在さえ知らなかったのです。
Wikipediaの説明によれば、
ディスタンクシオン(仏: La distinction : Critique sociale du jugement)字幕付きの社会的批評の判決 )は、1979年にピエール・ブルデューによって手がけられた著書。同年に発行され、1984年に英訳が出版された。著者ブルデュー自身による1963年から1968年にわたる実証研究をもとにした著書であり、フランス文化について社会学的に分析した本である。国際社会学会は1998年にこの『ディスティンクション』を20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊に選出した。
とのことですが、ひとことで言うと、
「私たちの言葉遣いや身のこなし、行動・知覚・評価の仕方、そういったものがすべて自らの学歴や出身階層によって規定されていることを、社会学的に証明した本」
ということになりそうです。
思考や性向は出身階層によって規定されているというのはマルクスやサルトルも言っていることですが、足を使って、アンケートやインタビューといった量的な方法でそれを証明したこと、そして趣味のようなそれらからもっとも自由と思われることまで学歴や出身階層に規定されていると証明したことで、ブルデューは歴史に名を遺した学者だと言えるみたいです。
【あなたの趣味も、学歴や出身階層に規定されている】
趣味も学歴や出身階層から自由でないと考えることにはやはり抵抗があります。
私には“これが趣味だ”と胸を張って言えるようなものはありませんが、それでも読書と映画鑑賞、そして絵画鑑賞については人並み以上に触れてきたつもりです。ここ十数年はコロナ禍になるまで、毎年何回も大きな展覧会を観るために東京に足を運んでいます。
幼いころ、周辺にそうした環境があったわけではありません。
生まれ育った二間だけの市営住宅には、なぜかミレーの「晩鐘」が一枚飾ってありました。それだけです。週刊誌以外の本もほとんどない家で、映画といえば父に連れられて見た嵐寛寿郎の「明治天皇と日露大戦争」で、金色の鳶がバタバタと羽を打ち鳴らす場面を覚えている程度です。
現在の私の書籍と美術と映画に関する教養はすべて私一人が引き寄せて築いたものであり、親や兄弟、家庭環境、出身階層や学歴とは一切関係のないものです。それは私の矜持と自由に関わる問題で、ブルデューがいかに偉大であろうととやかく言われたくありません。
しかし――。
(この稿、続く)
私には“これが趣味だ”と胸を張って言えるようなものはありませんが、それでも読書と映画鑑賞、そして絵画鑑賞については人並み以上に触れてきたつもりです。ここ十数年はコロナ禍になるまで、毎年何回も大きな展覧会を観るために東京に足を運んでいます。
幼いころ、周辺にそうした環境があったわけではありません。
生まれ育った二間だけの市営住宅には、なぜかミレーの「晩鐘」が一枚飾ってありました。それだけです。週刊誌以外の本もほとんどない家で、映画といえば父に連れられて見た嵐寛寿郎の「明治天皇と日露大戦争」で、金色の鳶がバタバタと羽を打ち鳴らす場面を覚えている程度です。
現在の私の書籍と美術と映画に関する教養はすべて私一人が引き寄せて築いたものであり、親や兄弟、家庭環境、出身階層や学歴とは一切関係のないものです。それは私の矜持と自由に関わる問題で、ブルデューがいかに偉大であろうととやかく言われたくありません。
しかし――。
(この稿、続く)