カイト・カフェ

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「ペンス・ルールと昭和の匂い」〜ハラスメントの加害者とならないために

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ジャン・オノレ・フラゴナール 「奪われたキス」(パブリックドメインQ)


 財務省次官セクハラ問題について、福田次官・財務省はなぜあそこまで強気に出られたのかと訝っていたのですが、やはり次官には次官なりの言い分があって黙って引き下がるわけにはいかなかったのです。

 要するに彼は、
「週刊誌の私に関する記事については事実と異なると考えており」「あんなひどい会話をした記憶はない」(4月18日)と言っているのであり、「(音声データは)一部しかとっていない。全体を見ればセクハラに該当しない」(4月19日)と否定したいのです。
 まったく言わなかったわけではないが、自分はあんな矢継ぎ早にスケベエな発言をするような人間ではない、全体を見てくれ、というわけです。

財務省は間違ったのか】

 一方財務省は、調査する人間全員が福田次官の部下ということもありますが、被害者とされる側の証言は絶対に必要だと考えた――これにはマスメディアをはじめ政府・与党からも批判の出たことですが、私には正しい対応だったと思います。

 被害者が名乗り出ると二次被害にもなりかねないから、告発はそのまま受け取るべきだということになれば世の中、何でもありになってしまいます。
 今回は「週刊新潮」という一流の雑誌でしたから国民の多くが「まあ、真実だろう」という気になりましたが、これがネットの「5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)」だったらどうでしょう。そこに音声データがあったとして、それでもデータを疑うことなく、ひとりの人間を罷免することができるのか。

 もちろん私もまじめに「週刊新潮」と「5ちゃんねる」を一緒にしようというのではありません。しかしこの二つへの対応が異なるとなると、その間に存在する無数のメディア(各種週刊誌、新聞、ネットニュースなど)の間に線引きをしなくてはならなくなります。
 「週刊新潮」「週刊文春」は信じよう、しかし「週刊◯◯」と「週刊△△」は検証が必要だ――そんなわけにはいかないでしょう。両方の言い分を聞いてみないと処分はできないというのは、至極まっとうな話です。

 また財務省の顧問弁護士を使おうとしたことも、私には大きな問題とは思えません。外部の組織に委託するにしても、費用を出すのは財務省です。結局財務省寄りの結論を出す疑いは消せません。
 それに財務省の顧問弁護士がだめなら、各企業内にあるセクハラ窓口なんかもっとダメで、組織防衛論から言えば「会社に必要な人材、社長・重役・能力のある社員のセクハラは扱ってもらえず、無能な人間の事案のみが取り上げられる」ということだって考えられます(そして普通は、無能な人はセクハラもしません)。
 担当者の善意を信じましょう。そうでなければ社会的コストばかりがかかって仕方ありません。ただしどうしても信じられないとしたら、あとは裁判だけです。

 今回の件について言えば、福田元次官が名誉棄損で訴えると言っていますから、いずれ白黒のはっきりする日が来るはずです。中途半端に終わらせることなく、きちんと最後まで行われることを願います。
 たぶん元次官が負けるでしょうが。

【何が問題なのか】

 問題の核心は加害者:福田元次官と被害者:女性記者との間の認識の差です。
 元次官は「長い長い会話の中から特定の部分だけ摘まみ出して、その上でセクハラと言われても責任の取りようがない」と本気で考えています。「全体を見れば発言はほんの些細なもので、とてもではないがセクハラと言えるようなものではない」と怒っているのです。しかし女性は違います。あのデータこそが事実だというのです。
 私は女性に軍配を上げます。

 女性の気持ちになって想像してみてください。
 次官には何回も何回も呼び出されている。時には今回のように深夜にもかかわらず呼び出され、慌てて着替えて出かけることもある。――にもかかわらず、政治的な話にはロクな返事もせず、時々合いの手か接続詞のようにセクハラ発言を入れてきます。
 次官にしてみれば長い長いまじめな話の間に、少しそんな言葉を入れただけ、しかも本気ではない、ただの戯言です。

 しかし女性にしてみると質問にまともに答えない長い長い無駄話(だから頭にも心にも入ってこない)の間に、「やめてください」と何度言ってやめてくれないセクハラ発言がギラギラ突き刺すように入ってくる(だから記憶にも心にも強く残る)わけですから、セクハラ発言だけを聞かされているに等しい――つまりあの音声データこそ、彼女の主観を映し出したものだったのです。

 ハラスメントの認定は被害者の主観に沿ってなされるべきものである以上、この件は既に決していると言えます。

【もちろん他人ごとではない】

 今回の事件に際し、あるテレビ番組で芸人コメンテーターのひとりが、
我々だって仲間内ではあんなことを言い合っている」
と言ったのに対し、別のタレントが、
「いやそれは違う。これは財務省事務次官という最高レベルに近い権力者と新聞記者という、上下関係のあるところで起こったことだ。我々庶民とは話が違う」
と、そんな言い方をしていました。しかしそれも違うと思います。

 芸能界の先輩は後輩に対して権力を持っています。ファンはしばしばタレントに服従します。本人にその気はなくても、タレント志望の子は芸能人の言いなりになる可能性を持っています。
 仲間内で気軽にエロ談義をしている最中、その輪の中のひとりが、表情を殺して屈辱に耐えているということは、大いにありそうなことです。

 芸能界ばかりではありません。企業の役員は社員に対して、先輩社員は後輩に対して、社会人は学生に対して、部活の先輩は後輩に対して、高校生は中学生に対して、中学生は小学生に対して、それぞれ一定の権力を持っています。したがって常に神経を研ぎ澄ましていないと、そこにセクハラ、ないしパワハラの生まれる危険性は常にあるのです。

 学校について言えば管理職と一般職、教師と生徒、教師と保護者がそれにあたります。
 先生からすれば生徒(特に女生徒)や保護者は、いったん嫌われると手も足も出なくなってしまう恐ろしい人たちですが、あちらから見ると“成績を握っている”“子どもを人質に取っている”、これも恐ろしい「権力者」です。
 したがって決して気を許していい相手ではありません。

【昭和の匂い】

 福田元次官も「今の時代ってのはそういう感じなのかなとは思いました」と言っているように、時代の変化ということにも気を配る必要があります。

 あるニュースコメンテーターは、
「どうも50代以上の人間と40代以下の人たちの間には、セクハラに対する意識の壁があるような気がする。50代以上の人間は私も含めて、これくらいのことはどうということもないといった甘さがある」
といっています。同感です。

 現在50歳の人は平成元年に成人を迎えた人です。つまり50代以上というと昭和の後期、バブルの浮かれた時期に大人社会に入ってきた人たちなのです。平成の辛い時期に大人になった40代以下とは、世の中の見る目が根本的に違っているのです。

 50代以上の多くは、飲み会の席で(というか素面でも)「あなたホントに美人だね」くらい平気で言います。女性の容姿について批評しているつもりなどさらさらなく、素直に誉めているつもりなのです。
 人生の先達として「そろそろ結婚したらどう?」などと平気で訓示を垂れるのもこの人たちです。自分が言われてきたからそう言っているだけで、大した意味もなく、それがセクハラだという認識さえありません。
 
 それなのに現代社会は――今回の事件で元次官が「お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」と発言したことに関して、「相手が接客業の人間だったらああいう言葉を使っていい、と考えること自体がセクハラだ」といった厳しい意見が出るほど、倫理性が高まっているのです。

【ペンス・ルール】

 最近、アメリカのペンス副大統領が、妻のカレン夫人(60)以外の女性とは2人だけで食事をしないと決めている、夫人と一緒でなければアルコールが出る行事にも出席しない、ということで評判になりました。(「ペンス副大統領、妻以外の女性と食事しないと話題に」毎日新聞2017年4月15日 )
「英国のメイ首相やドイツのメルケル首相とも2人では会えないのか」といった皮肉も交えての話ですし、女性との関係がうわさにならないように、夜まで一緒に働くスタッフは男性に限っていたというのは、結果的に重要な仕事から女性が外される場合もある、という意味でそれ自体がセクハラのような気もしますが、身を守るというのはそういうことなのかもしれません。

 日本では恋愛に対して臆病な若者たちを“草食系”などと揶揄してきましたが、「抱きしめていい?」「キスしていい?」などと絶対に言いそうにない彼らこそ、見習うべき人たちなのかもしれないのです。
 緊張し、慎重になりましょう。

【付記】

 ただし私には少々不満があります。
 前々から思っていたのですが、首相や大臣を取り囲んで行ういわゆる「ぶら下がり取材」、その際、最前列でICレコーダやマイクを差し出す女性記者たち、有意に美人ばかりではありませんか?
 いや、そもそも女性記者はみんな美人だ、ということであれば、採用選考の段階ですでにセクハラを受けていたことになります。
 私はそこが納得できません。