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「不登校の子どもから、教師が手を引かされた日」~不登校の歴史②

 1990年前後に、管理教育批判、受験教育批判の中で学校は大いに変質していきました。そして1992年には文部省「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告「登校拒否問題への対応について」(いわゆる平成4年報告)が出され、不登校(当時は登校拒否)の原因は児童生徒個人の問題ではなく、個人を問うてはならないという方向が確定します。そして不登校児童生徒には登校刺激を一切与えないことが正しい対処法であるということも、この時期に定まります。

 私たちの一部は強硬に抵抗しました。それは自分たちのやり方によってかなりの数の児童生徒を登校可能にした経験をもっていたからです。また「登校拒否は病気じゃない」と言われても、どうにも納得できない状況もありました。
 学校に来ようと思っても不安で足が動かない、立ちすくんでしまう、学校に来てもパーカーのフードを頭からすっぽり被って部屋の隅にうずくまっている・・・これが病気でなかったら、精神科医は何をもって心の病とするのか分からない、当時の私はそんなふうに感じていました。

 しかし不登校児童生徒に対して一切何もしないという方向はほどなく定着します。何しろそれまで再登校のために教員が費やしてきた労苦はたいへんなものでしたから、保護者や社会の抵抗を撥ね退けてまで同じことはできなかったのです。こうして不登校の子どもたちは、学校から完全に自由になりました。

 校則は大幅に削減され、子どもたちの学生服に丸刈りといった中学生の姿は見られなくなり、体罰はもちろん、名前の掲示といった精神罰も極端に少なくなります。それまで生徒を呼び捨にしていた教員たちは次第に「くん」「さん」をつけるようになり、やがて男子も女子も「さん」で呼ぶようになります。そしていつの間にか、「管理教育」は死語となります。

「厳しい受験体制」の方は、学習内容と時数の削減(つまり「ゆとり教育」)が本格化する以前に、少子化によってどんどん進められ、これも死語に近くなっています。
 理屈上、これらすべての施策によって、不登校問題は解決に向かうはずでした。しかしそれにも関わらず、不登校の方はひたすら増え続けたのです。

 90年代は不登校児童生徒が捨て置かれた時代です。子どもが少しでも「学校に行きたくない」と言えば「問題が深くなり前に」とか「エネルギーの貯まるまで十分に待つ」とか言われてどんどん家庭内に引き込まされていった時期ともいえます。そして学校は10年前とまったく違ったものになってしまいました。

 90年代後半、私たちの世界に新しい問題が見えてきます。発達障害という概念です。
 それまで私たちは、無鉄砲な子、キレやすい子、乱暴な子、何度言ってもわからない子、他人の神経を好んで逆撫でする子、何かにこだわるとまったく動けなくなる子など、さまざまな問題を抱える子を見てきました。そしてそのたびに自分たちの指導の不足を反省し、説得や話し合い、強制や恫喝を繰り返して何とか問題解決ができないかと苦労してきました。しかしそうした苦労がとんでもない方向違いだったり逆効果だったりする子が大勢、それもかなり大勢いるということが知られてきたのです。

 指導に一定の光が見えるとともに混乱も増した時期と言えます。

(この項、もう一日続きます)