「理由はない」~不登校に関するまっすぐな答えのひとつ

 かつて教えていた小学校5年生の男児が突然学校に行きたくないと言い出しました。私はそんなとき間髪を入れず家庭訪問をする主義ですので、その時も授業を他の先生にお願いして出かけました。

 そしてその子に会って、「どうして行きたくないんだ」と訊ねたのですが、それに対する答えはたった一言、
「理由はない」

 これが他の子だったら“言いたくないのだ”と考えて手代え品代え聞き出そうとするのですが、その時ばかりは違いました。直観的に“この子、本当のことを言っているな”と思ったのです。そしてそれが正解でした。
 私は今でも、その時のその子の答えを、非常に優れたものだったと感じています。無理に理由をこじつけて問題をややこしくするようなことを、その子は避けたからです。

「いじめがある」「友達とうまくいかない」「先生が怖い」、だから学校に行けない、といった訴えがあり、客観的にもそれが認められる場合、つまり原因がはっきりしている不登校は私たちが慣れ親しんだ不登校とは若干違います。原因を消すと不登校も消えてしまうからです。私たちが長くつき合っている不登校でも同じように「いじめがある」「先生が怖い」と言ったりしますが、原因を消しても傾向は収まりません。

 私たちは「子どもにとって楽しいはずの学校に、敢えて来ようとしない以上そこには相応の理由があるに違いない」と思いがちですが、本当はそうではありません。理由のない場合がけっこうあるのです。少なくとも本人が説明できるような意味での理由はない、つまり自分でもわからない場合が少なくないのです。

 それにそもそも、「子どもにとって楽しいはずの学校」という前提が間違っていて、最初からまったく楽しくないとしたら、学校に来ないことはむしろ当然です。

 誤解を恐れずに言うと、私は子どもの自殺についても同様の感想を持つことがあります。特に「いじめ」を理由にした自殺事件の場合、私たちは「死」にふさわしい峻烈ないじめがあったに違いないと想像しがちですが、必ずしもそうとは言い切れません。

「葬式ごっこ」で有名な鹿川君の場合は確かに、“これでは死にたくもなる”と思わせるものがありましたが、どうほじくっても十分な“事実”の出てこない場合もあります。また、成績のことで母親から叱られただけで自殺する子どもがいたりすることを考えると、自殺と原因との関係が必ずしも1対1でないことは自ずと分かります。
 恐ろしいことに、子どもは(大人も同じかも知れませんが)、まったく大したことのない理由で死ぬことがあるのです。

 以上、一昨日、磯辺先生の指導の最中に突然フリーズしてしまったK君のことを考えているうちに、思い出したことです。

 子どもの行為が合理的なものであれば合理に従って指導すればいいのですが、まったくの不合理の場合には指導の方向が違ってきます。私には苦手な領域ですが、ヤクザの手打ちのように本質的な解決をしないまましかし解決する、問題から目を逸らさせて終わりにする、といった腹芸がないと、解決できない問題もあります。