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「不登校の全責任は学校にあると決まった日」~不登校の歴史①

 不登校が社会問題として浮かび上がってきたのはおそらく1975年ごろでした。

 この1975年というのはひとつのエポック・メイキングで、カラーテレビ・電気掃除機の普及率が90%を越えてそろそろ頭打ちになり、大学進学率も38%をになってこの時期のピークをつくりました(その後大学進学率はいったん下がり回復に15年ほどかかります)。その前年高校進学率も90%を越えています。

 私が初めて不登校の子に出会ったのは1978年に学習塾の講師としてでした。小学校1年生の女の子でしたが、2〜3回塾に来ただけで結局辞めてしまいます。そして公立学校の教員にとなってから最初に不登校の子を担任したのは1988年です。

 当時はまだ不登校が担任の力不足とみなされる時代で、そのため夜討ち朝駆けで手紙攻勢・友だち攻勢をかけ、担任自身も繰り返し家庭訪問をしたりほとんど拉致状態で学校に引きずり出したりしていました。そしてそれで不登校が終わるケースも少なくなかったのです。

 ところがちょうど85年あたりから東京シューレなどの不登校支援クループや一部の医師・教育関係者から、
不登校の子どもを学校に行かせることにどういう意味があるのか」
不登校は健全な反応であって子どもを不登校に追い込む学校自体が間違っているのではないか」
という痛烈な異議申し立てが行われるようになります。この点で1989年に出版された「登校拒否は病気じゃない―私の体験的登校拒否論」(奥地 圭子 著)は大きな役割を果たしました。

 マスコミも連日この問題を取り上げ、紆余曲折はあったものの、最終的には
不登校の原因は学校の管理教育と厳しい受験体制=知識偏重であること」
不登校児童生徒の自主性を最大限の尊重し、登校刺激を一切与えないことが最善の対応」

という2点が確認され、定着します。そしてこの二つが、日本の学校教育を大きく変質させることになったのです。

 1990年7月の「神戸高塚高校校門圧死事件」を契機に、管理教育の根幹とされた校則見直しを求める世論は高まり、文部省はついに同年9月校則の全面的見直しを指示することになりました。このときの見直しというのはすさまじいもので、数値目標・日程目標を掲げての削減だったので、大した議論もないまま、残しておいた方がよかったような校則まで根こそぎ削ってしまいました。それはのちのち大きな禍根を残します。

 また、今ではマスコミみんなが忘れたふりをしていますが、学習内容・授業時数の削減、つまりいわゆる「ゆとり教育」は、この流れによって強く要望され実現に向けてスタートしたものです。これらすべては「学校の管理教育と厳しい受験体制=知識偏重」を解消しようとする試みでした。

 1992年には文部省「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告「登校拒否問題への対応について」が出され、「登校拒否は病気じゃない」という方向が確認されます。そこには
「 登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるものであるという視点に立ってこの問題をとらえていく必要がある」
とあります。

 つまり不登校の子の資質・生育歴・家庭環境などを問題にしてはいけないということです。これによって不登校の研究は10年も遅れ、その間、学校の支援を全く受けない不登校の子と家庭が苦悩の日々を送ることになりました。

(この項、続く)