「世の中は完璧でなければならない、私のために」

 今回の東海道新幹線の事件に際してマスコミの一部は「崩れた安全神話」といった表題で報じています。そのあつかいに首を傾げる人も多いのではないでしょうか。

 明確な悪意を持ってガソリン10リットルを持ち込んで放火する、そうした犯罪に対してもJRは対応しておく必要がある、メディアは本気でそう考えているのでしょうか。私なぞはそれだけのガソリンを燃やされても車両本体は燃えなかった、JRはすばらしいとか思ってしまうのですが、それはまったくお門違いなのかもしれません。

 2004年の新潟中越地震の際も、上越新幹線が脱線して「安全神話の崩壊」とかいった大きな記事が出ましたが、最大震度7地震に際していち早く減速し(震源が近すぎて停止には至らなかった)、脱線はしたものの車両の転倒はなく死傷者も出なかった。停車は高架上だったにもかかわらず高架橋の崩壊もなかった。

 これで「安全神話の崩壊」となると、新幹線は重戦車並みの安全性を求められていることになりますが、それでいいのでしょうか?

「新幹線は安全ではない」との認識を広めることで利用者を減らし、あるいは国際的な競争力を下げることに目的があるのか、過剰な安全対策のためにJRの負担を増し、その結果、運賃の値上げや日常的な手荷物検査など利用者の負担を増やして新たな記事のネタにするためか、はたまた単に「言ってみたい」だけなのか、その辺りは理解しかねるところです。

 不思議なことに、1995年の地下鉄サリン事件の際には「安全神話の崩壊」だとか、「手荷物検査の必要性」といった話は出ませんでした。

安全に関することで「大変だからやめましょう」は理由にならないでしょう。今回の東海道新幹線の被害者は死者2名、重軽傷者26名でしたが、地下鉄サリン事件の方は死者13人、重軽傷者約6300人なのです。想定される被害の規模を考えても、ラッシュ時の首都圏の鉄道こそ手荷物検査などの安全対策をすべき、というアイデアが出てきてもよさそうなのにでてきません。それよりも「たかが1000人程度しか乗らない新幹線」なのです。

 私は「結局は、マスコミは何にでも不満を言う駄々っ子ではないか」と思うことがよくあります。とにかく文句を言うのが好きなのです。その結果についてもまったく顧慮しません。それは世論がそうだからです。言いたい文句や不満を代弁してもらって気分のいい人がたくさんいます。

先日、

「文明というのは自分で行っていたこと自分が背負っていたものを、他人や機会に代わってもらうことです。したがって文明人は必然的に幼児化する」

という言葉をご紹介しました。

 文明人の一部は、自分のために周囲の人々や組織が十分働いてくれないと感じています。

 JRは「私」に十分な安心や安全を保障してくれない、政治は「私」のことをしっかりと考えてくれない、学校はウチの息子のためにしっかりと躾もしてくれなければ他人様に誇れるような学力もつけてくれない、その癖、ああしろこうしろ、ああしましょうこうしましょうと要求ばかり押しつけてくる。困ったものだ。先生たち、指導力に問題があるんじゃないの?

 マスコミの背後にあって、主張の基礎になるのはそういう人たちの“声”なのかもしれません。