「教育の目的」〜公教育の行方①

「もはやどこの大学を出たかでは人生は決まらない。人生を決めるのはどこの家に生まれたかだ」
 いつ誰の言葉として聞いたのかは覚えていないのですが、いつも頭の隅にあります。ほんとうに身もふたもない・・・。
 しかし昨日の「赤ちゃんポスト」の男の子のことを考えると、その身もふたもない話が現実であることがよく分かります。さらにその子ですら最悪でないことは彼自身の、
「そのおかげで(里親である現在の)お父さんとお母さんに会えたのだから、『ゆりかご』に連れて来てもらって良かったと思っている」
からも伺えます。今も、ほんとうにどうしようもない実の親の元で育てられている子はいくらでもいるのです。

 よく「昔の親はしっかりとした家庭教育をやっていた」みたいなことをいう人がいますがそれは戯言です。明治初期の就学率を見てみれば明らかです。特に女子の教育には不熱心で、学制発布から30年たっても6割です。学校教育を受けさせずに家庭教育行う親などめったにいません。
 明治の貧しい家庭では、子どもは小さな労働力です。教育など受けさせる余裕もなく、家庭教育も行き届きません。それを何年も何年も丁寧に拾い上げ、学校に結びつけたのは明治・大正の教師たちでした。彼らは家庭でバラバラに放置されていた子どもたちを集め、立派な公民(皇民)として育てるべく奮闘したのです。
 ここに公教育のひとつの本質があります。バラバラのものを統一する、教養のレベルを一定以上に高め国民としての統一性を築くこと、それが公教育の仕事です。そうしないと国家の統一は維持されず、その子も心豊かに暮らしていけないからです。

 形こそ変え、しかし状況は現在も変わりありません。世の中の親の大部分は信頼できても、ごく一部は親としての仕事を果たしません。「こうのとりのゆりかご」が存在するのはそのためですし、児童虐待として繰り返し保護者が摘発されているのも事実です。そこまで行かなくても、子どもに無関心な保護者は少なくありません。
 また普通の親にとっても、“教育”は十分に行おうと思えば手に余ります。
 だから学校が行う、国家が責任を持って行う、それが学校教育の本質です。個人に任せていては十分に果たせない“教育”を国家が行い、個人の能力を高めるとともにバラバラなものをひとつにまとめていこうというのです。
 それを教育基本法は「第一章(教育の目的)第一条」で次のように示しています。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
 つまり「人格の完成」を目指すとともに「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民」――そういう型にはめることを目指すのが教育だというのです。少なくとも学校教育はそういうものだと教員たちは教えられてきました。
 ところがある時期から、風向きが変わってきます。 

                               (この稿、続く)