「神の名のもとに」〜イタリア奇行⑩

 五日間に訪問した教会は主なものだけでも10以上。盗み見るように覗いたところも入れるとけっこうな数になります。あまりにたくさん行ったので、どこがどうだったか記憶も定かではありません。

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 全体の印象でいうと大きな教会ほど観光客が中心で中規模のところだと祈りをささげる人がちらほら見えるようになり、観光地として地図に出ていないような小さな教会には信者が大勢集まっているという感じになります。ですから小さなところでは遠慮して、足を深く踏み入れないようにしました。

 もっとも印象的だったフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会は中規模の寺院で、拝観時間が4時からということもあり、観光客もまばらで祭壇に跪いて祈る人もたくさん見かけます。

f:id:kite-cafe:20200521074443j:plain 青と黒、金色を貴重とした荘厳な室内で、おのずと厳粛な気持ちにさせられました。そしてそこで私たちは告解室の前に並ぶ人々の姿を見つけるのです。並ぶといっても4列の長椅子にきちんと座り、順番を待っているのです。

 最初の一人が席について30分ほどして、神父が教会の奥から現れて告解室の右の部屋に入ります。それを見て1番の男性が立ち上がり、左側の扉から中に入ります。驚いたことに二人が話す様子は、擦りガラスを通して外からもぼんやりと見えるのです。私はてっきり映画で見るように、カーテンのついた小さな窓越しに行われると思ったのですが、その告解室は広く開いて互いの顔を見ながら行われるようでした。神父の向かいで男性が、イタリア人らしい大きな身振りで何かを訴えています。
 カトリックではこれを「サクラメント」とか「ゆるしの秘蹟」と言ったりするようです。告白することが赦されることだという理念ないし感じ方は、少なくとも日本にはないもので、私はこれをカウンセリングの問題と関連させて考えることがあります。日本のカウンセリング事情を海外と比較するとき、少し状況が違うように感じるのはそのためかもしれません。
 いずれにしろ告解という、私たちの日常にはないものを見学してから敬虔な気持ちで私たちはその教会を後にしました。

“それにしても”と私は思います。この壮大な教会群、豪華絢爛を極めあるいは荘重を詰め、2千年に渡って膨大なエネルギーと財を吸い上げていったキリスト教というものも、もとを質せばナザレのイエス呼ばれる貧相な男の死によって始められたものです。パウロやペテロといった偉大な組織者がいたことを考慮しても、これほどのものになると草創期の誰が予想できたでしょう。私たち異教徒から見れば、直接イエスが残したものとその結果とのアンバランスに驚愕せざるを得ません。
 私は特定の宗教の信徒ではありませんが、かなり宗教的な人間でもあります。神の摂理を信じていますし天の配剤というのも感じています。
 人間は自分自身や周辺を越えたどこかに、大きな力のあることを感じていなくてはなりません。そしてその力は、紆余曲折はあっても最終的に正しく生きる者にも悪しき者にも相応の人生を用意するのだと、そうした信仰がなければ私たちはより良く生きていけない、そんなふうに感じています。
 私がほんとうに子どもたちに残したかったのも、そういうものです。

(この稿、続く)