「日本教について」〜賢い消費者の話�B

「社会規範」は民族・国家ごとに異なります。また一部は成文化しています。法律や条例がそれです。だたし法令は人為的につくられたものですから、自然に身につくとか放っておいても守られるといったものではありません。自動車免許取得の際に道路交通法などを勉強して実地教習をうけるのもそのためです。

 他方、慣習や伝統など自然発生的に生まれ遵守される内的社会規範の多くは、明文化されず政府による強制などがなくても自然に守られます。無言のうちに皆が“そうだ”“それは当然だ”と思えばいいのであって、いちいち文書で統一性を計る必要などないのです。

 だたしすべてが不文律なのではなく、一部は成文化されていて私たちにも読むことができます。聖書とかクルアーンコーラン)、タルムードといったものです。それぞれ特定の時期に編纂され統一性を計ろうとしたものですが、今では信者たちの心の奥深く入り込んで一定の社会規範を構成しています。あまりに深く入り込んでいるためにいちいち聖典に当たり必要はありませんが、微妙な問題になると聖典に立ち返り、宗教裁判所の裁可を仰がなければならないこともあるようです。

 日本にはキリスト教国やイスラム教国のような意味での民族宗教はありません。ウチは神道だ、ウチは浄土宗だと言っても生活の隅々まで行き届いて制約を受けているといった家庭はそうはありません。しかしそれにもかかわらず、私たちは日本人同士、同じ思考や同じ信念、同じ感性を共有していると信じることができます。

 たとえば交通事故を起こした時、「大丈夫ですか」もしくは「済みません」といって話を始められるのは、最初から相手が同様の態度で来るとほぼ信じているからです。「バカ野郎!」「責任取れよ!」がスタートラインかもしれないと思えば、とてもそんな態度には出られません。

 東日本大震災の際、新宿駅周辺にはバスやタクシー待ちの列が気の遠くなるような長さで続いていました。何千人という人々がいても、大部分は自分と同じように辛抱強く待ち続けるだろうと信じているからああなるのです。隙さえあれば人は列に割り込むものだと思えば争っても前に出るはずです。

 私たちの内部には無数のそうした「社会規範」があって、一行の文章にもなっていないのに、ほぼ順調に守られている――40年ほど前、山本七平が「日本教」と呼んだのはまさにそうした日本独自のものです。

 教祖も伝道者も聖典もなく、教会も教主もいないのに1憶2千万人も信者を抱え、しかし信者たちは自分がそうであることを意識してもいない完璧な宗教、それが日本教なのです、山本七平は日本では外来の宗教ですら変質させられてしまう、日本人キリスト教徒といってもそれは日本教キリスト教派でしかないと言っています。

 ただし、教会も教主もなく聖典すらない日本教ですが、この宗教を常に支え繰り返し教義を教え、血肉にしようとしている組織はあります。それは通常、私たちが義務教育学校と呼ぶ組織です。

                               (この稿、続く)