『体罰礼賛』・・・ではないけれど

 先日、PTAの会合で他の学校の保護者と飲む機会があったのですが、その席上、隣に座った方から

「昔の先生は生徒のことをバンバン殴った。しかし生徒はそんな先生についていった。自分が悪いことをしたら殴られるのは当然だと思っていたし、殴ってでも悪いことを止めてくれる先生はありがたかった」

という話がありました。体罰を否定しない人たちに共通するひとつの考え方です。

 そこまではいいのですが、その上で「うちの子について言えば、悪いことをしたら先生もバンバン殴ってくれていいのですが」と言われると私もちょっと引きます。何しろ殴った時点で教師が処分を受けることは確実ですから、「バンバン殴ってくれていい」は「早く処分されろ」と同じです。おいそれと話に乗るわけには行きません。

体罰で子どもが良くなるわけはない」―こちらは反体罰の側の代表的な意見です。私も賛成です。体罰を受けた子どもは教師を恨みこそすれ、それでいい子になることはありません。先生に殴られて良くなったというのは幻想、または記憶の改変で、いい先生と思っていた人にたまたま殴られてそれが思い出になっているだけです。

 暴力のおかげでよくなった子はいません。ただし、(誤解を恐れずに言えば)体罰はそれ以外の子にとっては抑止力になります。体罰の肉体的辛さよりも衆目の中で殴られるという精神的辛さが、周りの子を萎縮させおとなしくさせる、そういった面があります。そしておとなしくしているので教師の話がよく聞ける。聞いてみるとなかなか教訓に満ちた良い話をしている。だから教師を信頼し、だから人間的にも成長できた、そういう面がありました。

 繰り返しますが、私は体罰で子どもがよくなるとは思いませんし、体罰には今も絶対反対です。しかし子どもが最初からまったく話を聞いてくれない(聞こうと思っても教室がうるさすぎて聞こえない)、そんな状況ではどんなに素晴らしい話も立派な指導も通って行きようがないのです。

 私は先日、ある中学校の授業を参観しながら、「こりゃダメだ」といった感を深くしました。あれでは子どもの高まりようがありません。

 そんなことを言うとすぐに「昔の先生は威厳があって、子どもたちは騒ごうなんていう気にならなかった」などという人がいますが、そんなことはありません。そういうことを信じる人たちは、夏目漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読んだこともなければ、渡辺崋山の「一掃百態」(下図)という絵をみたこともない人たちです。昔の子どもは今よりも性質の悪い面があります。

 さて、体罰と言う抑止力が使えない今日、大騒ぎをして話を聞こうとしない子どもたちにどう対処したらよいのか・・・。

 私のアイデアは三つです。

�@体罰に代わる罪と罰のシステムをつくる。(教室で騒いだらこうなるんだよ、という罪と罰の関係を明らかにする)

�A少なくともクラスを30人以下学級にするか複数担任制にして、一人の教師が対応する児童生徒数を減らす。

�Bあきらめる。

 現状では�Bがもっとも現実的な答えではありますが・・・。