「年をとって分かること、できること」

 天候は今ひとつでしたが、三連休を何もせずに過ごすのも嫌で、家族と紅葉狩りに行ってきました。その紅葉もだいぶ雨に落とされてやはり今いちでした。しかしそれでもかなり美しいものです。そこそこに人の入りこみもあったようです。

 ところで私は子どものころ、紅葉の美しさが全く分かりませんでした。それは死んだり死にかけた葉っぱが不規則に入り混じった混沌としたかたまり――ひとことで言えば「ウ○コ色」の変なもので、それを愛でる人の気持ちが理解できなかったのです。もちろん今は分かります。けれど美しいと思えるようになったのは、30代もかなり深く入ってからのことです。

 同じく子どものころはまったく分からず、大人になって徐々に理解できるようになったものに「味」があります。もともと好き嫌いが多く食べられないものがハンパなく多かった私ですが、大人になるにつれ、というか大人になって年を重ねるごとに、次第においしく食べられるものが増えてきたのです。

 例えば酢の物――子どものころはまったくダメで、顔を近づけるだけで吐きそうになりました。あるいはいくつかの生もの――特に生ガキ、刺身で言えばいわゆる「ひかりもの」、魚卵のいくつか、そんなものがダメで、それは結婚して他家の食文化が入ってくるまで続きました。ですから宴会ではしばしば「食べられないものづくし」みたいになってしまうこともありました。今はいずれも、好物か、そうでなくても苦にせず食べられます。おそらく味覚そのものが成長したのです。

 子どものころ、レストランや食堂で食べ終わった食器を丁寧に重ねる母の行動が理解できませんでした。お金を払ったのに、「ごちそうさま」と言って会計を済ませるのも分かりません。ホテルに泊まった翌朝、ベッド周辺をさりげなく整え、ゴミをゴミ箱に入れて入りきらないものはその周辺に集めること、バスの乗降にいちいち挨拶の言葉を入れること、電車やバスの中で静かに過ごすこと人込みをかき分けるときには「すいません」と声をかけながら進むこと、列には割り込みをしないこと等々、それらはいずれも子どものころには意味も分からず、しかし目くじらを立てるほどこともないので何となく真似をし、いつしか身について、それをしないと気が済まなくなったことです。今は自然にできます。

 以上、ここまで話してきたことはすべて一つのことです。それは「世の中には経験し続けるしか理解の方法がない――そういうものごとがある」ということ、したがって子どもには理解できない、けれど続ければいつか分かるときがくる、そういうことです。

 私が若いころだって「今の若者は道徳的になっていない」と言われました。山本五十六に「『いまの若い者は』などと、口はばたきことを申すまじ」という言葉がある以上、戦前の若者もそう言われていたに違いありません。さらに遡って明治時代も、いや江戸時代だって若者は常にそんなふうに言われていたはずです。なぜなら道徳は身につくまでにものすごく時間がかかるからです。

 あの孔子ですら「七十にして、心の欲する所に従えど矩をこえず(七十になると思うままにふるまっても道をはずすことがないようになった)」というくらいですから十代はおろか二十代、三十代にも不道徳に見える人がいるのは当たり前なのです。

 別に戦後の教育が悪いわけではありません。