「出しゃばりお米(ヨネ)のセクシャル・ハラスメント」

 昭和31年のヒット曲だそうですからリアルタイムで知る由もないのですが、「愛ちゃんはお嫁に」という曲があって中に「出しゃばりお米(ヨネ)」という女性が出てきます。この人が何をやったかというと、

さようなら さようなら 今日限り   
愛ちゃんは太郎の嫁になる

俺らの心を知りながら  
出しゃばりお米に手を引かれ  
愛ちゃんは太郎の嫁になる

 つまり何らかの画策をして、太郎さんとの縁談をまとめてしまったのです。お米さんはそういう人なのでしょう。
 昔の日本の地域社会にはこういう人が必ずいました。私の生まれた地域でも子どもが親から叱られると必ず割って入るお婆さんがいて、だから親も安心して子どもを家から締め出すことができます。こういう人は地域に独り者がいたりすると必ず出かけて行って、頼まれもしないのに縁談をまとめたりする。だから“出しゃばりお米”なのです。

 東京都議会の「男女共同参画社会推進議員連盟」会長に選ばれた自民党の野島善司議員(65)が、「平場」(プライベート)なら自分も「結婚したらどうだ」と言う、と発言して問題になっています。これが私にはよくわからない――。
 たしかに議会中、少子化問題をあつかった発言をしている女性議員に「まず自分が結婚しろ」というのは間違っています。明らかに問題の主旨をはずしていますし、相手の発言を邪魔する「嫌がらせ(=ハラスメント)」だからです。しかし平場で「結婚したらどうか」という場面はいくらでも想定できますし、嫌がらせとはいえない場合が、むしろ多いのではないのかと思うのです。

 まず考えられるのは親が子に対して言うケース。職場の先輩が後輩に言って諭すという場合もあります。その先輩が「上司」であることも、当然あるでしょう。
 野島議員の言った「平場」はそういうものであって、議員の発言を「公的な場でなければ、オレだって平気で嫌がらせをする」と解釈するのは歪曲です。
 しかしマスコミはこぞって野島発言を非難し、議員は陳謝します。発言内容を撤回することは拒否しましたが、もう二度と同じような発言をすることは(たぶん)ありません。そして一連の報道を見た人々は、公的にも「平場」でも、「結婚したらどうか」といった発言を一斉に控えるようになるでしょう。もう誰も、人に対して「結婚しろ」とは言えなくなるのです。“出しゃばりお米”の出る幕はありません。頼まれもしないのに見合い写真を持って行くのは、口で「結婚したらどうか」というよりはるかに直接的で強圧的な態度です。

 雑誌「文芸春秋」の十月号でタレントの田村淳が「テレビが楽しくなくなった」という一文を寄せています。テレビ局が自主規制に自主規制を重ねているうちに、実験的な活動がまったくできなくなってしまったというのです。さもありなんと思います。
 田村の活躍の場であるバラエティの場は、同時にニュース番組や社会評論の場でもあるのです。後者が人権の絶対尊重と小指の先ほども人を傷つけてはいけない方針で各界を非難攻撃している最中に、前者が適当なことをしては困るのです。かつては報道局がいじめ問題で学校を糾弾している最中にドリフターズ高木ブーをいじめて遊んでいるといったことも行われましたが、現在ではNGです。右手の行っていることは左手も知っていなくてはなりません。

 学校も自主規制に自主規制を重ね、少しでも危険と思われる遊具は撤去し、冒険的な活動も減らし、教師は言質を取られないよう発言を極力減らして、教材研究に向けるべき時間をコンプライアンスに使い果たす方向に向かっています。
“出しゃばりお米”のような一歩踏みでる活動は、厳に慎めと押さえつけられているようなものです。