カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「児童虐待のこと」~小動物でさえいたぶるのは苦しのに・・・

 いじめで子どもが自殺したとなると学校は徹底的にたたかれ、メディアは何ヶ月ものあいだ学校を追い回して離してくれません。もちろん人ひとりが死んだわけですから文句を言う筋合いはないのですが、一方で心の隅には「それにしても不公平だ」と思う気持ちがあります。同じ子どもの死ぬ話なのに「虐待死」の扱いはあまりにも軽い、そう思うのです。

 平成24年度に虐待によって殺された子は99人。その大部分は親や親の配偶者の手によるものです。最も愛してもらいたい人、あるいはその人の目の前で(配偶者によって)殺されていく子の無念、それを考えるとなぜマスコミや社会はこの問題をもっと大きく扱わないのかと、悲鳴を上げたくなります。

 人間の行うことの大部分は想像ができます。万引きをする人間、非行に走る人間、ギャンブルに耽る人間、わいせつ行為を行う人、同調するかどうかは別としてそういう人たちの心の動きを推測することは不可能ではありません。しかし虐待だけはまったく分からない。動物であれ、子どもであれ、お年寄りであれ、自分より確実に弱いものを力や言葉でいたぶることができる、弱者が苦しんでのた打ち回る姿を平然と見ていられる、そういう神経がどう捻っても分からないのです。
 この問題についていつか考えをまとめておかなければならないと思いながら、今日までほとんど手を付けられずにいるのはそのためです。

 かなり昔のことですが、ある校長先生が校長講話の際、生きている鯉をタオルに巻いて生徒に触らせ、そこから人権の話を始めたことがあります(私自身が見聞きしたことではなく、人から聞いた話です)。生きている鯉ですから生徒の手の中で微かに暴れます。その感触を確認させてからタオルを開き、そこにあるものを見せます。体育館内の生徒たちは一様に粛然とし、息の音すらしない雰囲気になります。そしておもむろにこう言うのです。
「今の君たちが感じているのが、思いやりの気持ちだ」

 ・・・そのあと隠してあった水槽に鯉をもどし、そこから本題に入るのですが、残念ながらその先については聞いていません。おそらく水槽に戻した瞬間に、体育館中に安堵のため息が深く広がったことと思います。もちろん今はできません。動物虐待だとか生徒の心を傷つけたとかですぐに新聞ネタになってしまいます。

 動物の死の感触ということで言えば私にも記憶があります。それはA市の学校にいたときのことです。飼育していたニワトリ小屋に野ネズミが入り込み、餌をねらうついでに鶏の足までかじり始めたのです。そこで私が退治することになったのですが、これがなかなかしんどい仕事でした。

 金網でできたネズミ取りを買ってきてチーズを仕掛けます。伝説の通りネズミはチーズが大好きで、面白いように引っかかります。それを翌朝、紐でぶら下げて裏の小川に行き、しばらく水に沈めて殺してから川に流すのです。その、水に沈めてネズミが死ぬまでの間、断末摩に苦しんで暴れるネズミの感触は、紐を通して私の手に伝わります。本当に嫌な仕事でした。

 食材になる魚や害獣であるネズミを殺すことは虐待ではありません。しかしそれにもかかわらず、私たちはその「嫌な感じ」に苦しみます。さらにその段階を越え、ネコよりも大きい哺乳類を意味もなく殺せるとしたら、それは正常とは言えないでしょう。ましてや相手が人間なら、子どもなら、それを殺すまで叩いたり、なぶったり、もてあそんだりできるはずがない・・・それが私の確信なのですが、そんな確信をあっさりと否定してしまう事案が年に100件近くもあるというのです。

 まったく理解できません。しかしだからこそもう一度、最初から勉強してみる必要があるともいえます。