カイト・カフェ

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「集団性を高め、子どもを成長させる教育はもうできない」~あのクラスの話③

 10年前の教え子の、同級会の話をしてきました。

 涙1斗、流して別れた子たちでしたが、あとから考えると本当にそのとき別れて良かったと思います。飛び抜けて優秀な子たちでしたので、それ以上に教えることは私には残っていなかったからです。
 また、代わりに担任した教員が、若く、創造的なスーパーティーチャーで、私の教えられなかったことをたくさん経験させてくれました。
 授業はもちろんですが音楽指導に長け、音楽会の歌や演奏はとんでもなく素晴らしいものでした。ビデオカメラを使った映画づくりも堪能で、何本もの映像作品を残したようです。そして夏休みに行った学校での「お泊り会」は、子どもたちの心に生涯の思い出として深く刻まれました。子どもたちはほんとうに幸せでした。
 しかし、
「あれが最後でしたね」
 同級会の最中、思い出話に一段落ついたところで、後任の教師はそう言います。
「この子たちといろいろやったのが最後で、次のクラスからはそうしたことが一切できなくなりました。今もやっていません」

 学力向上が至上命題となると、遊びめいたことはなかなか企画できません。今で言うアカウンタビリティの問題です。そうした活動に何の意味がある? と問われるとうまく説明できないのです。
 もちろん私たちには確信があります。子どもたちが集団で楽しんで活動するとき、そこには一種の連帯感や共生意識が生まれ、ひいては学力や道徳性の上で決定的に有利であること、それは正確で隙のない数時間の授業よりはるかに価値が高いということを。

 たとえば中学校や高校では「受験は団体競技である」という言い方をします。苦しい受験勉強をひとりで乗り切るのは困難なのです。夜、勉強をしているときも、“同じ時間、同じ仲間のアイツも頑張っている”“自分が合格すれば一緒に喜んでくれる連中がいる”、そうした意識が困難を容易に乗り越えさせます。“苦しいのはオレだけじゃない”と言っても、実際の個人が思い浮かぶのとそうでないのとでは、まったく違ってきます。

 仲間意識の強いクラスが試験でも好成績を上げる事実を、私たちはたくさん見てきました。しかしそれを数値で示すことはできません。得点は比較できても、仲間意識を数値化することは難しいし、それがクラスの活動によってつくられたかどうかを数値で確認することはできません。したがってそうした活動は自然と少なくなってしまいます。

 かくして学校はそうとうにつまらないところになってしまった。彼のような優秀な教師が辣腕を振るうことなく、規格通りの授業をする場所になってしまった。

 何とも悲惨なことです。

(この稿、終了)