道徳はいらない

 不登校が明らかに見過ごせない社会事象となってから、もう40年近くなります。そうなるともう、劇的に不登校をなくすことなど不可能だという気がしてきます(おそらくそれは正しいのでしょう)。そこでここ数年強く指摘されているのが、「新たな不登校を出さない」ということです。新たな不登校が出なければ、最長でも小学校は6年、中学校なら3年後には「不登校ゼロ」になっているはずです。では「新た不登校を出さない」ためには何をしたらいいのでしょう。

 そこから導き出された概念が「誰でも、毎日来たくなるような楽しい学校」です。内容的には、校地内に新たな遊び場をつくったり、楽しい行事を増やしたり、休み時間を増やしたりといったことですが、私が戸惑っているのは、そうした楽しい時間を生み出すために、週に1回程度、清掃をなくしてしまうという思い切った取り組みをしている学校がいくつも出てきたことです。そう言えば最近のテレビで、清掃の時間を減らして補習授業に励む学校の例を紹介していました。

 私にとって清掃活動は特別の意味を持つものです。いや私だけではなく、古来、日本は教育の中核に常に清掃を置き続けてきたはずです。寺社の朝は清掃から始まります。柔道・剣道といった「道」のつくものもすべて清掃が基本です。徒弟制度を持つものは、どんな世界であれ(大工さんもお寿司屋さんも落語家も)最初にやらされるのは掃除でした。私たちの祖先は、経験的に、清掃が人を作ることを知っていたのです。

 また、3・11以来日本の国民性が大いに見直されていますが、その中に必ず出てくることが、「街にゴミがない」「公衆トイレが、顔も洗えそうなほどキレイだ」という話です。街や公衆トイレは、はまさに日本の顔なのです。

しかしもはや、学力や不登校対策のために、そうした美しい道徳は捨てるときがきたのかもしれません。

 もうひとつ。

 小学校が「誰でも毎日来たくなるような楽しい学校」づくりに成功しても、それを引き継ぐべき中学校も社会も、同じように「楽しい」ものにはできません。

中学校の先生などは「学校なんてつまらなくても来るものだ」と本気で思っています。なぜなら英単語を覚えるとか複雑な計算に慣れる、たくさんの問題にあたるといった勉強の苦痛も、部活における基礎練習の苦しさも、中学校の教育課程から払拭できないからです。

 社会となればなおさらで、「誰でも毎日来たくなるような楽しい会社」を目指す企業など、おそらくひとつもありません。

 小学校の教員が死に物狂いで「楽しい学校」をつくることが、そのまま中学校とのギャップを広げることにならないか、社会との関係にひびを入れるのではないか。私が危惧するのは、そういうところです。