「不空」とは「空しからず」の意、「羂」は包帯状の布地、「索」はロープです。どういう仏様かというと、もっとも救いようのない人々、救われることさえ願わない者までも「羂」と「索」でからめとり、ぐるぐる巻きにして救い上げようとする存在です。額の部分に三つ目の目があり、表情に厳しいものがあります。
本人が望まなくても救い上げるという意味では、私たちと同じ仕事です。
今、「どういう仏様かと言うと」と書きましたが、不空羂索観音は正確には「仏」ではありません。「仏ではなく菩薩だ」という言い方になります。
私たちが仏像と呼ぶものは、本当は「仏」像と「菩薩」像と「天部・眷属」の像と「その他」の像に分類できます。
「仏(ぶつ・ほとけ)」は悟りを開いた存在で別名「如来」、代表的なものに「釈迦仏」「阿弥陀仏」「薬師如来」「毘盧遮那仏」などがあります。
「菩薩」の代表は「観音」「地蔵」、ほかに「文殊」「普賢」「日光」「月光」など数多くあります。「天部・眷属」は仏教上の神様や護衛たち。「梵天」「帝釈天」「毘沙門天」「阿修羅」「迦楼羅(かるら)」「四天王(「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」)など。
「その他」には鬼(天灯鬼・竜灯鬼)や明王、仏弟子(摩訶迦葉《まからしょう》、須菩提《すぼだい》)などの像があります。
それらを総称して、一般に「仏像」と呼んでいます。
仏(如来)は悟りを開いた者、菩薩はその候補生という位置づけになります。
仏は欲望を超越していますから布一枚の姿で表現されます。二段頭、天然パーマ、長い耳、眉の間の一群の毛の固まり、首についた三列の皴などは、それが仏の基本的な特徴です。
菩薩の方は候補生ですからまだ欲があり、だから宝冠をかぶりネックレスやブレスレッドをつけています。修行中ですので髪を落としたままの菩薩もいます。仏の手足となって現実の人間を救う存在と考えられ、そのために庶民の直接の信仰対象ともなっています。
阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩ですが観音の方がより精力的で、衆生のそれぞれの悲しみに合わせて、三十三の姿に変身すると考えられています。最も人気のある菩薩です。そしてもう一人、極めて活動的で人気のある菩薩に、地蔵がいます。
今朝のデイ・バイ・デイは、
「薬師寺の薬師三尊像、新薬師寺の十二神将、東大寺戒壇院の四天王など好きな仏像はたくさんありますが、『像』ではなく『仏・菩薩』の概念として好きなのは不空羂索観音と地蔵です。不空羂索観音は・・・」
というふうに話を持って行くつもりでしたが、ずいぶんと寄り道しているうちに紙面が足りなくなりました。
続きは明日、お話しします。
(この稿、続く)