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「教育は死んだ」~教育は死んでしまった。私たちが殺してしまったのだ。

 教育再生実行会議が第二次提言をまとめ、安倍総理に提出しました。これに対し総理は、「この提言は、地方教育行政の基本構造を大きく転換するものであり、これによって教育再生の基盤が築かれるものと確信をしております」と発言しています。

 今回の提言のもっとも重要なポイントは、首長に教育長の任免権を与えた上で、教育長に権限と責任を一元化するという点です。ただしこれだけでは何がどう変わるのかよくわかりません。そのためにまず、現在の教育委員会制度について確認をしておきます。

 教育委員会は定数5人で(経済規模によって3人乃至6人の場合もある)、首長が議会の承認を得て任命します。そしてその5人の中から互選によって代表者である教育委員長と実務担当者の教育長を決めます。〔教育委員長―教育委員(教育長)―教育委員会事務局〕といった感じになるのです。
 その中で教育長だけが常勤で、他の委員は非常勤です。そこに問題がある、というのが今回の提言の発端です。

 大津市のいわゆる「いじめ自殺事件」における教育委員会(事務局)の不透明さは、教育員委員会の責任者が教育長なのか教育委員長なのか、はたまた教育委員全員にあるのか、それが不明確だからおこったことだと教育委員会制度に疑問を持つ人々は考えます。

 そこで教育委員会制度を〔教育長―教育員会事務局〕という形だけにし、教育長の任免権者を首長とすることで〔首長―教育長―教育委員会事務局〕という形に発展させ、首長の意思が教育行政に直接反映できるようにしようというのが第二次提言の本筋です。
 これだと大阪桜宮高校の(いわゆる)「体罰自殺事件」に際しても、橋下市長は教育長に命じて桜宮高校の「全職員総入れ替え」をいとも簡単に実行できたはずです。

 ただし第二次提言は現在の教育委員を全廃しようとは言っていません。それは提言通りの制度変更が行われた後で、仮に自民党の教育政策に反対する立場の人が首長になった場合、特定の地方で政府の方針とは全くかけ離れた教育が行われる危険性があるからです。また首長が変わるたびに学校教育が大きく変わってしまうことも心配です。

 そこで第二次提言では、教育委員は〔首長―教育長―教育委員会事務局〕の外枠にあって、「教育長に基本方針などの大きな方向性を示し、執行状況をチェックする機関に改めることも検討すべき」としています。これを多少の安全弁とするみたいです。しかしそれでは十分ではないでしょう。

 橋下市長のような強烈な個性が出てきた場合、その地方は一定期間のあいだ特別な教育が行われることになります。そのあいだに学校教育を終えた子どもたちは、特別な教育を受ける子どもたちです。

 いくら公選制とはいえ、教育の根幹を素人である首長に握られるのは恐ろしいような気がします。しかし私はこれ以上の論評をする気はありません。この問題については以上で終わりです。

 私が引っかかるのは、むしろ冒頭の安倍総理の発言です。
「これによって教育再生の基盤が築かれるものと確信をしております」
 ところで、教育再生の必要性はいつから自明のこととなったのでしょう。日本の教育は今のままではいけないと、いつ皆で話し合ったのでしょう。「再生」という言葉を使う以上、すでに日本の教育は“死んだ”と皆で合意したはずですが、それがいつだったのか、私は思い出せないのです。

 ニーチェは「神は死んだ」と書き残しました(「喜ばしき知識」)。
 この言葉は有名ですが、それに続く一文は完全に忘れ去られています。
 実はニーチェはこう言ったのです。
「神は死んだ。神は死んでしまった。私たちが彼を殺してしまったのだ」

 私たちが日本の教育を知らず知らずのうちに殺してしまわないよう、心から願っています。