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「誰が学校の教科書を選んでいるのか」~教科書の話③

 教科書検定の過程は、たとえばA社の教科書はこういった問題点をこのような文言で指摘され、こんなふうに書き改められた、といったふうに様々な方面から検証されているのでずいぶんわかりやすくなっています。しかし教科書採択の部分についてはなかなか表には出てきません。国の検定を通過している以上、どの教科書を採択してもさほど問題はないという前提がありますから、「A社を差し置いてB社を採択するとは何事だ」という不満があるならそもそもそれを通した国の検定基準を問題とすべきです。

 教科書採択というのは、検定を通った教科書のうち、それぞれの市町村がどの教科書をつかって学ばせるかを決める選定の場です。それが秘密裏に行われるのはひとえに教科書会社からの圧力を避けるためです。
 教科書というのは単価は安いですが採択されれば、数百万部におよぶ隠れたベストセラーです。膨大な収入をもたらします。しかし採択がゼロなら執筆者に支払う原稿料も印刷費用も、すべてパー。したがって出版社も必死です。

 義務教育学校の教科書採択は市町村教育委員会の権限ですが、教育委員会事務局で決めているとは思えません。何といっても事務局職員の大部分は行政の人ですから、教科書やその教え方については何の知識も経験もないからです。また、大きな市町村の場合は事務局内部に学校現場からの出向職員(多くは主事と呼ばれる)を抱えている場合もありますが、それとて小中全教科の専門家がいるわけでもありません。したがって現場の教師を集めて意見を集約することになりますが、それが誰なのか、いつ集まってどのように決めているのかは前述の通り秘密です。現場の教員ですら知りません。
 もっとも採択理由は各教科ごと文章にして公表されますので、教科書会社はそれを参考に次の教科書に取り組めばいいのですから、細かな過程を知る必要もないのです。

 ただし私は、その教科書採択の場はおそろしく保守的な場だと信じています。私が採択委員だったらA社からB社に変えるというのはよほど勇気のいることだからです。
 それは授業の組み立て、運び、資料、指導技術などすべてが“現在使用している教科書”に基づいて教師たちが蓄積してしまっているからです。極端な話、国語の教科書を変えてしまうと、それまで国語教師たちが蓄えてきた作者に関する知識、作品成立の時代背景、作品の価値・評価、味わい方などが全部使えなくなってしまいます。なにしろ掲載されている作品自体が違うのですから。
 理科や社会はそうではないだろうと思われるかもしれませんが、こちらも楽ではありません。教科書会社は採択されるために独自色を出しますから、指導の順や軽重の掛け方、使う資料などが異なってくるのです。

 したがって教科書会社は変えないのが原則――だれもそんなことはあからさまに言わないでしょうが――採択委員の胸の内には、きっとそんな思いがあるはずです。私だったらそう思って参加します。
 また、だからこそ逆に、あるとき長年使ってきたA社からB社に変更されるというようなことがあればそれは極めて異常な状況と考えることができます。新しく選んだ教科書のできがよほど良いか、委員会に何らかの圧力がかかっている場合です。もちろん後者については、圧力をかけるのが首長である場合も組合的なものである場合もともに考えられます(教科書会社の攻勢に屈したということはまずないでしょうが)。
 教科書が変えられたとき、そう思って手にすれば、また新しいことも見えてくるはずです。