夏休みに家で考えたこと�@

 ロンドンで平和の祭典が行われている間じゅう、中東のシリアでは内戦が続いていました。たくさんの市民が殺されましたが、今も戦闘は終了しません。

なぜ終わらないのかというと、政権と反政府勢力の双方を支援する存在があるからです。

 経済的にはシリアに利権を持つロシアと中国が政権を支え、その他の先進国が反政府側を支えています。宗教的には同じシーア派系のイランが政権を支え、スンナ派サウジアラビアが反政府側を支えています。そして双方から大量の武器や資金が流れ込んできます。これで戦闘が終わるはずがありません。

 同じシリアという国内にありながら、政権側と反政府側は文化的・心情的に別のグループに属している、それが現在のシリアの現状です。それがシリアのグローバリズムです。

“日本”や“合衆国”といった「国家」を前提とし、それが世界的に結びつきを深める「国際主義」は「インターナショナリズム」の訳語です。グローバリズムには適切な訳語がありませんが、それは島国である日本がこれまで経験したことがないからです。

“日本”は日本として完結していて、日本人も日本語も、日本文化も日本企業もすべてこの日本国の中にあります。その枠を超えて外国の勢力と結びつく可能性は(一時期の社会主義を除くと)ほとんどなかったのです。

 しかし欧米は違います。彼らは国境の枠を超えることに慣れています。例えばカトリックがそうですし、言語も国境を越えます(ドイツ語はドイツ本国以外にオーストリア・スイス・リヒテンシュタイン・ベルギーなどで公用語です)。しばしば民族も国境をまたがっています。

 オックスフォードやケンブリッジの卒業生は母国の人間関係よりも、大学の人脈に縛られています。EUという発想自体がすでにグローバルです。

 日本の教育について「これからのグローバル社会においては・・・」といった言い方を聞く時、私がまっさきに考えるのもそうしたグローバリズムです。日本人が国家の枠を突き抜けて(または無視して)外の勢力と結びついていくという意味です。

 もちろん日本政府が中国の傀儡になるとか、北朝鮮主体思想を戴くといったことはありえません。言語や民族が国家の枠を越えることはないでしょう。では何が国家を越えるのかというと“企業”です。トヨタパナソニックといった老舗はそうでもありませんが、楽天ユニクロといった新興企業は“日本”の枠内に留まっていることはないでしょう。楽天が社内公用語を英語にしてしまったのは、明らかに“日本”を振り棄てようとしているのです。こうしたグローバル企業が望む社員は、「あなたは何者?」と問われて「日本人」ではなく、「楽天の社員です」と答えるような人です。そこには日本のGDPを押し上げるとか日本の若者の雇用を守るといった考え方は微塵もありません。ただひたすら企業が肥大していけばいいのです。

 日本の新興企業がそうした価値観を持ち、日本政府・文科省が「グローバル時代の教育」というかたち支援し、私たち学校が強力に推進していくとなれば、もうこれは鬼に金棒。数十年後の日本は解体され、日本国内にいながら「日本人」と呼ばれることに違和感を持つような(生活様式や習慣、ものの考え方などが異質な)人々が生まれてくるわけです。

 それが私たちの教育の先にあるものだということ、そういう可能性を含んでいるということ。心しておきたいと思いました。