カイト・カフェ

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「果たして人間は平等なのか」〜アメリカ大統領選挙の憂鬱⑤

 自由とか平等とかは基本的人権の中でも最も基本的なものです。
 しかし果たして本当に人間は自由であり平等なのか? トランプ現象が突き付けるのはそうした本質的な問いです。
 しかしこれについてはきちんとした証明、もしくは説明はないのです。

 これについて成文法として初めて書かれたアメリカ独立宣言(1776)は、
「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」
と言い、自由や平等は自明(証明不要)であるがそれも断定しない、ただ「信じる」のだという言い方をします。
 続いて出されたフランス人権宣言(1789)はその第一条(自由・権利の平等)で、
「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」
と何の説明もなしにドンと置きます。
 日本国憲法(1946)に至っては「人間は自由かつ平等だ」と言った書き方が一切なく「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」
と書いて、「誰が」「なぜ」与えたかといった問いには一切答えない仕組みとなっています。
 つまり「人間は自由で平等だ」という証明はどこにもない、おそらくそれを行うことに失敗したのです。人間が自由だとか平等だとかは証明できないのです。

 しかし他方、以前お話ししたオルトライトの代表者の言う「男と女」「同性愛者」「美人と醜い人」に優劣があって平等に扱われるべきではないという証明もできません。80年ほど以前、ナチスが大変な費用と時間をかけて民族の優劣を証明しようとしましたが、アーリア人ユダヤ人の区別さえ正確にはできなかったのです。

 そこで私たちはこの問題に封をすることにしました。「人権」という名のもとに、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」(独立宣言)ということにしたのです。つまり約束事なのです。

 この問題に最も熱心に取り組んだのはアメリカ合衆国でした。
 多民族国家で人種差別の絶えなかった国です。現在でも10秒に1人の割合で子どもが虐待されたりレイプされ、年間330万人が被虐待児童として報告される国です。こうした国では「人権」といった大きな旗を振り続けなければ、あっという間に国が崩壊してしまいます。人権が侵されやすい国なので「人権」にうるさいのです。

 余談ですが「孔孟思想を生み出した中国がなぜこんな不道徳な国になってしまったのか」という言い方があります。しかしそれは逆です。その頃からずっととは言いませんが、少なくとも2500年ほど前の中国は不道徳極みない国だったのです。だから孔子孟子が生まれた、道徳的だったら出て来ようがありません。
 日本でも山本常朝が「葉隠」を書いて武士道を明らかにしたのは18世紀初頭、武士がすっかり堕落したころのことです。

 アメリカはそうやって国家(多民族国家)を支えてきました。差別や虐待・虐殺がいつ起きても不思議のない国だからこそ“人権”を異様に重視してきたのです。
 シリア問題を解決するうえで最も簡単なアサド政権支持といった政策を取れないのも、南シナ海問題で中国を牽制するために当然手を握らなければならないはずのドゥテルテ政権に二の足を踏むのも、みなこの“人権”のため、「人間は自由で平等だ」「合衆国政府はそれを守るために全力を尽くす」という擬制を守らないと国が潰れてしまうからです。

 ドナルド・トランプはそれをやめようとしています。少なくとも彼の支持者のかなりの部分は合衆国の崩壊を意に介していません。
 アメリカは崩壊すべきだ、そして白人中心の強国として生まれ変わるべきだ、そう考えているのです。
「Make America great Again (アメリカを再び偉大に)」というときに彼らが思い描いているのは、冷戦終結後の一極支配のアメリカではありません。第一次大戦から第二次大戦へと向かう時期の、黒人がよく言うことを聞き、差別の行き届いた、あの、白人が偉大だったアメリカです。