カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「PISA型学力について」~ディベートとともに日本人に合わないもの

 先々週テレビで、「NHKスペシャル未解決事件簿File02オウム真理教」というのを興味深く見た(特に第3話「オウムVS警察 知られざる攻防」)と思っていたら今週、指名手配を受けていた菊池直子が逮捕され、オウム事件は急激にクローズアップされている感があります。それでふと思い出したのがディベートです。

 ちょうど17~8年前、学校の中にもディベート学習というのが流行りだし、私も少々かじって授業で扱ったことがあります。ところがさあこれから本格化、という時期になってオウム事件が起こり、そこのナンバー2の上祐史浩が早稲田のディベート・サークルの雄だったという話が出て急速にディベートはすたれていきます。「ああ言えば上祐」と言われた上祐史浩のしゃべり口調が全く日本人の体質に合わず、しかもディベートをやればオウムになってしまうみたいな誤解もあって、誰も手を出さなくなったのです。しかしそれ以前から、私のような多少手を出した者は「こりゃ、ダメかもしれん」と薄々感づいてはいました。

「とにかく勝てばいいんだ」というディベートの精神は、実際にやってみると日本人の感性にどうにも合わないのです。

 話は変わりますが、OECDの学力国際比較PISAの特徴は次のようなものです。

  1. 知識や技能を実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。学校カリキュラムには関わらない。
  2. 図表・グラフ・地図などを含む文章が重視され、出題の約4割を占める。
  3. 「選択式」を中心にしながらも「自由記述形式」の出題が約4割を占める。
  4. 記述式では、答えを出すための「方法や考え方を説明する」ことが求められる。
  5. 読解力として、「情報の取り出し」・「解釈・理解」・「熟考・判断」、そして自分の「意見を表現する」ことが求められる。テキストの「内容」だけでなく「構成や形式」についても問われる。

  この五つを繰り返し読んでいるうちにわかってくることは、ここには日本の教育から抜け落ちていることが山ほどあるというということです。

 たとえば「読解力」は強調されているものの、詩や俳句は『「情報の取り出し」・「解釈・理解」・「熟考・判断」、そして自分の「意見を表現する」』にどう絡んでくるのでしょう。美術や音楽は「実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できる」という問題とどうすり合わせればいいのでしょう。そこにPISA型学力の特徴があります。つまりPISA型学力とは「敵を打ちのめすための能力」なのです。

 国際交渉の場で相手をねじ伏せる、経済の分野で勝ち組に残る、100:0でなくても50:50以下にならないためのパワー、それだけが国際的に合意できる「学力」であって、コーランにどれだけ忠実な生き方ができるのかとか、自然とどう調和できるかとかいったことは一切、問題になりません。

 そういった意味も含めて、日本人は本気で「(PISA型)学力世界一」を目指すつもりなのか、私はもう一度問いたい気がします。

 被災地で給水車までの長い列の最後尾に並びじっと待つような人間ではなく、どうしたらこの長い列を出し抜いてより多くの水を確保できるか、それを本気で考えて実行に移せるようなたくましい国際人―これからの教育が追求していくのは、そうした人間なのか。

 上祐史浩が出てくるまでディベートの実際の姿が見えなかったように、日本の子どもがPISA型学力に長けるようになって初めて、その姿が見えてくるのかもしれません。その時でもまだ、引き返すに間に合う状況だといいのですが。