カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「その情熱の源泉」~給食を食べさせることへの情熱②

 子どもたちに好き嫌いがあろうがなかろうが、少食であろうがなかろうが、バランスの良い食事を一定量以上食べなくてはならない―私たちが給食を強制できるのは、一義的にはそれが学校教育の指導項目に含まれているからです(根拠は学校給食法および食育基本法)。しかしそれだけでは私たちの給食に向かう情熱は説明できません。私たちが給食指導に熱心になるのは、それとは別のいくつかの理由があるからです。

 その第一は、食物そのものに対する信仰―残され給食は捨てられるということに対する嫌悪―です。
 私たちは、「『いただきます』は食事に供された植物や動物の命と食べ物を提供してくれた様々な人々に対する感謝の言葉だ」と教えたりしますが、教師自身そのことを本気で信じていて、その“命”や“労苦”が無残に捨てられることに耐えられないのです。

 第二に、ほとんどの子どもは何らかの形で「苦手な食べ物」を持っています。しかし学校教育の枠の中のことですから、たいていの子どもは教師の指示に従って苦手を克服しようと努力します。その中にあって特定の子だけが無理をしないで済ませる、それはとうてい我慢できることではありません。
 これについては改めて考えますが、学校で一番大切な原理は平等原理なのです。その平等原理を守るために教師はたいへんな苦労を続けています。また子どもも保護者も、この平等原理を守れない教師を“エコヒイキ”として拒否します(ただし自分がエコヒイキされる場合を除いて)。したがって、食物アレルギーのように全員が納得できる理由がない限り、「あれは嫌い、これは食べたくない」といったわがままを許してはいけない。ひとりのわがままを許せば、他の子のわがままも許さざるをえません。そして全員の好き嫌いを野放しにしたら、それこそ給食の大半は廃棄物にされてしまいます。平等原理を守る教員、エコヒイキをしない教員は、したがって多少の幅はもたせつつも、教師はこの問題であとに引くことができないのです。

 第三の点、これはあまり意識していないことですが、それは私たちが給食を通して人間形成を図ろうとしているからだと私は考えています。
 経験的に言って、何でもおいしく気持ちよく食べる子は、教師や親の指示に素直に耳を傾けることができる子です。嫌いな食べ物を飲み込めない子は、嫌な忠告や指示を飲み込むこともできません。嫌いな食べ物を飲み込もうとすると吐き気がするように、嫌なことを言われると一部の子どもは、「ムカつく」と言ったりします。生理的に受け付けないという意味です。ですから食事をきちんと取れる子どもの育成を通して、他人の話に素直に耳を傾けることのできる子を育てようと考えるのは当然のことです。

 最後に、それでもなお「給食は子どもを従わせるための教師の道具だ」とか訳の分からないことを言う子どもがいたら、その子に諭すべき最後の言葉を書いておきます。
「ん? だったらいいよ。とりあえず君だけでも給食やめてみたら。学校に強力に申し出た上で給食費払わなければ、給食は絶対に止まる。そうして毎日お弁当を持って学校に行けばいいんだ。それで君は自由だ。ただしお母さんに毎日弁当を作らせるのはなかなか容易じゃないよ。多くのお母さんは、毎日弁当を作るくらいなら舌を噛んで死んでしまいたいと思っている。君のお母さんがそういう人でなく、気持ちよく作ってくれる人だったらいいね。まず母親を説得してから、もう一度この場に出ておいで」