カイト・カフェ

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「市井教育論」~世の中は学校をこんなふうに見ているらしい

 世の中の人たちはどこで学校教育の姿を学ぶのだろう?
 これは間違いなく新聞やテレビといったマスメディアを通じてです。

 だいぶ前のことですが、以前の学校の保護者から、
「日本の先生は、授業の時間は世界一少ないのに、雑用とかがたくさんあって本当に大変なんですよね」
と言われてびっくりしたことがあります。そこで思い出したのはその数ヶ月前、どこかの新聞に、
「日本の教科指導にかける時間は先進国中最も少ないが、雑用が多いために拘束時間が跳び抜けて長い」
といった記事が出ていたことです。そのことを下地に、学校に同情を寄せた、そういうお話です。

 しかし記事はその程度であり、そこから得られる情報もその程度です。
 “雑用”と呼ばれる仕事の中身が、テスト作成や採点、社会見学の計画やPTA活動、児童・生徒会の計画といった学校に不可欠な仕事だということは、その人もその記事を書いた記者もしりません。ただ何となく、いろいろさせられていると思っているだけです。その上で教科指導の時間の少なさを嘆きます(*)。
*この「教科指導の時間の少なさ」というのは未だに理解できません。どう考えても授業時数は世界トップランクのはずです。もしかしたら数学・国語・外国語といった世界に共通する教科だけを比較したもので、家庭科や音楽・美術などが必修の日本は不利なのかもしれません。

 私はかつて学習心理学の論文を大量に調べたことがありますが、研究の基礎となる考え方がことごとくマスコミに汚染されていることに唖然とさせられました。例えば「子どもたちは厳しい競争に晒されているために・・・」とか「日本型の詰め込み教育のために・・・」とかいった具合です。基礎が狂っているから当然研究は間違った結論を導きます。しかしそれにも関わらず周囲がすべて同じ方向に染まっているから、間違っていることに気づきません。

 安倍晋三内閣のつくった「教育再生会議」はそうした間違いの上につくられた会議で、したがってそこから導き出された「教育改革」のほとんどが誤りでした。「教育再生」というからには日本の教育がすでに死んだことを前提としてカンフル注射を打ったつもりなのでしょうが、健康な体にカンフルを打てば身体は傷みます。現在の教育の混迷の原因のひとつは、確実に健康な日本の教育を不用意にいじった「教育改革」のためであって、何もしなければむしろうまく行っていたはずだと私は思っています。

 そうしたことを前提として、今の私たちに何ができるか。
 マスコミの生み出す間違った市井教育論に対して学校のやっていることを明らかにし、常に訴えていくこと、説明していくこと、それしかないと思うのです。