カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「給食が食べられないという状況の実像」~給食を食べさせることへの情熱①

 昔、小学校の1年生で、「固いものが食べられません、野菜が苦手です」という子を担任したことがあります。しかし実際クラスがスタートしてみると、とてもではありませんがその程度ではありませんでした。
 “固いもの”の中には「肉」も「魚」含まれていて、苦手は野菜に限りません。とにかく牛乳以外のほとんどのものが食べられず、ご飯も普通の人の一口分が限度。本人の申告によって配膳された給食は、食べ残しの多い子どもの下膳と同じ状態(おかずの魚5mm角、味噌汁5cc、ご飯一口分といった具合)で、これには呆れました。そのくせ家に帰ると「ただいまあ、お腹空いた〜」とか言ってケーキを食べていたりするのです。

 子どもたちの学校に対する不満のひとつに、“なぜ学校は給食を強制するのか”というのがあります。インターネットの掲示板などを見ていると、繰り返し上げられるテーマです。
「教師は食物アレルギーというものを知らないのか、強制によってアナフィラキシーで死んだらどうするのだ」という言い方もありますが、これはお門違いです。食物アレルギーがあるならその分を除去すればいいのです。

「たくさん食べられる人も少食の人もいる。だから平等に食えというのはおかしい」という批判もあります。しかしこれも考慮できる範囲内です。量に差はつけられます。しかし少食で減らすといっても限度があり、想定される一定量以下に減らすことはできません。極端に言えば、少食だから米一粒汁一滴に減らせといっても応じることはできないのです(先ほどの子どもの例)。

 しかしその上でなぜ私たちが給食指導に熱中するのか、学校外の人にはまったく理解できませんし、私たちも十分な説明をしていません。それにはいくつかの理由があって、その全部をきちんと整理していないからです。

 給食をきちんと食べさせなければいけない理由のひとつは、それが重要な教育内容だからです。日本の学校教育の三つの柱、知育・徳育・体育の体育に関わる課題であって、「バランスの良い食生活を送ることができる」「正いい食事マナーを身につける」といった明確な目標がありますからやらせるのが当たり前なのです。数学や国語を教えるのと同じで、そもそもなぜ数学を教えるのか国語をやるのかといったことを問い直さないように、給食指導も問い直したりしないのが普通です。
(その意味からすれば先ほどの「たくさん食べられる人も少食の人もいる。だから平等に食えというのはおかしい」という言い方も、「数学が得意な人も苦手な人もいる。だから同じように三平方の定理を覚えろというのはおかしい」というのと同じくらい愚かなことです)

 しかし好き嫌いを許さない、食べ残しを許さないという私たちの情熱は、単に教師の仕事だからというレベルを越えています。そこには三つの理由があると思われます。

(以下、明日)