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「真珠湾攻撃の日」~日本がまんまとしてやられた物語

 今日12月8日は真珠湾攻撃の日、つまり太平洋戦争開戦記念日です。70年前(1941)の今日、日米戦が始まって日本は破滅への道を歩き始めました。

 1941年の12月8日は月曜日、現地ハワイは12月7日の日曜日でした。この日までに日米関係を悪化の一歩をたどっていましたが開戦の兆候は見えず、ハワイの米軍も普段の日曜日と同じようにのんびりと過ごしていました。そこに日本の戦闘機350機が押し寄せたわけですからひとたまりもありません。攻撃隊の第一波が真珠湾に入り込んだ時点で「トラトラトラ」(我、奇襲ニ成功セリ)と打電したのは納得の行くところです。

 よく知られているように、真珠湾攻撃は日本にとって奇襲でしたが、アメリカにとっては「卑劣なだまし討ち」(ルーズベルト大統領)でした。宣戦布告状は暗号のかたちで午前7時までに大使館に届いていたのに、それを解読してタイプで清書するのに5時間以上もかかり、その結果「アメリカ東部時間午後1時に手交せよ」との指示のあった布告状は午後2時20分に渡されることになったのです。午後1時25分から始まった真珠湾攻撃から遅れること55分、予定の時間から1時間20分ものちのことです。アメリカの国務長官ハルはその場で文書を読んで不快感をあらわにし、こう言ったといいます。
「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を、地球上で受け取ったことない」

 ルーズベルト大統領は「卑劣なだまし討ち」といい12月7日を「屈辱の日」として米国における反日憎悪を一気に高め、報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化されました。それが12月7日〜8日のあらましです。

 大使館の怠慢がその後の日本の命運を左右したことを考え、またその日以来「卑怯者」の汚名を着せられたことを考えると、この問題は深く追求されなければならない、12月8日は日本の「国辱記念日」として長く語り継がねばならない・・・そんなふうに私は思ってきました。しかし今回、ふと思いついてもう一度調べなおすと、知らなかったこともたくさん出てきて、さまざまな考え方があることが分かりました。

 まだ理解したことが未整理なので、箇条書きにしておきます。

  1. 12月7日にハル長官に渡されたのは日米交渉決裂の宣言書であって「宣戦布告状」などではなかった。
  2. 日中戦争だって宣戦布告をしていないわけで、そもそも日本は宣戦布告などするつもりはなかった。その後ベトナム戦争パナマ侵攻において、アメリカ政府だって宣戦布告していない。
  3. ハル長官が怒ったのは「日米交渉を続けるフリをしながら実際には攻撃の準備をしていた」という裏切り行為に対してであって、通知が遅れたことに対してではない。
  4. 同じように宣戦布告のないままに攻撃を受けたイギリスは「だまし討ち」といったかたちの非難はしていない。それは日本と交渉中でなかったからである。
  5. 外務省本庁が在米日本大使館適切な指示を与えていない。12月上旬の段階で日本の攻撃があることは、アメリカ政府が予期できなかったように大使館も予期できない状況があった。

等々です。

 やはやりどんなこともしっかりと調べなければ分かりませんね。ただしはっきりしているのは、12月8日以降のアメリカ政府のプロパガンダは実にみごとで、その点でも当時の日本を完全に上回っていたということです。