カイト・カフェ

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「あるべき形」~ニュースと言えど残虐な場面は流さない

 昨日の読売新聞ニュースに
米CNN「イスラム国」投稿の殺害映像放映せず
というのがありました。それによると、
 米CNNテレビは3日、ヨルダン軍パイロットを殺害したとして「イスラム国」が投稿した映像や画像を、テレビや電子版などで放映しないことを決めたと明らかにした。
とのことです。

 理由としてあげられたのは次の2点。
「今回のケースでは、殺害されたとみられる前の画像でさえ、被害者の尊厳を傷つける」
イスラム国は、我々が映像を放映することを望んでいる」

 昨日は私もいろいろ書きましたが、二の四の言わず、「犯罪者の意図には従わない」と言えばよかっただけだと、少し後悔しました。

 今回の事件では後藤さんの母親が、息子よりも地球や宇宙を心配する心情を明らかにして周囲を慌てさせたりしましたが、最後まで節度を持って対応した奥さんや、兄を含む後藤さんの親族の、誠意ある言葉に深く静かな感動を覚えました。
 政府や国民や国際社会に感謝し、詫び、本人の軽卒を指摘し、しかしその業績を認め、誇りとする――その態度は誠実で、丁寧で均衡のとれたものです。

 宮藤官九郎の映画「謝罪の王様」の中には阿部サダヲの台詞として、
「この国じゃなあ、車にぶつけてから謝ったんじゃ遅いんだ! ぶつかる前に謝れ!」
というのがありましたが、無用に政府を動かし国際社会を動揺させたことに対して、まず謝罪の言葉がなければ次のどんな言葉も入って行きません。良い悪いの問題ではありません。日本というのはそういう国です。
 しかもそれが形式ではなく心情の奥底からもたらされたものであることは、たとえば息子の死に際して淡々と対応していた湯川さんのお父さんが、後藤さんの死に対して激しく動揺し嗚咽したところからも分かります。

 東日本大震災で救助された人々の最初の言葉も「すみません」です。軽い交通事故ならぶつかった双方が「すみません」から会話を始めることも少なくありません。そんなふうにいったん身を引いてから話を詰めていくのが日本流です。こうした感性が生きている限り、たいていのことは紛争のレベルに進まないはずです。

 かつて「日本人はすぐに謝ってしまい、認めなくてもいい非を認めてしまう」と言われた時期があります。国際社会ではまだまだ「アイム・ソーリーと言ったら負け」といった場所があるので油断なりませんが、そうした基準に単純に合わせるのではなく、日本式をこそ国際基準にすべきです。私はそう思います。
(最近では、合衆国を中心に「事件・事故の初期における軽い謝罪は、それで非を認めたことにはしない」というアイムソーリー法が次々と採択されています。良いことです)