「特殊」教育用語について�C〜個性・個性教育〜その2

「何でもかんでも先生の言うとおり、ハイハイとやっているような子どもじゃダメだ」

 そういう言い方があります。なんとなく聞き流してしまいそうですが、よく考えると大変なことです。

 これを言った人は意識していないかもしれませんが、エリートは斯くあれという話を、一般論のように語っているからです。「何でもかんでも先生の言うとおり、ハイハイと」できるような子はクラスのエリートでしょう。そういう子が教師の指示の枠を越えて価値あることを行うのは歓迎すべきことです。しかしたいていの子は「何でもかんでも先生の言うととおり」にはできない子で、だからこそ苦労しているのです。そんな子たちが「先生の言うとおり」にしなくなったら大変です。その損失は実力もないのに先生に逆らった“その子”が負わなければならなくなります。

 金曜日に「個性・個性教育」ということでこのデイ・バイ・デイを書き終えて、しかしどうにもしっくりこない感じがありました。「大切にして伸ばすべきは『価値ある特異性』としての個性だけだ」と、そんなふうに言いきっていいのだろうかということです。

 そしてそのうち気づいたのは「価値ある特異性」だけを“個性”としてしまうと、「個性を持たない子」がたくさん出てきてしまうということです。実際、小学校の低学年で「価値ある特異性」をもった子なんてめったにいないでしょう。

 しかし「価値ある特異性」をもった特別な子(=エリート)を大切にしろというのは、日本の学校教育になかなかなじみにくい概念です。そんなことが声高に叫ばれていいはずがありません。

 どうやら私は、二つの点で思い違いをしていたようです。

 ひとつは、「個性教育」について日本全体に確かなコンセンサスがあるという思い込みです。

 考えてみると「個性」も「個性教育」も、今日まで誰も正確に定義してきませんでした。

一部の人たちは「何でもかんでも先生の〜」と同じように、明らかに日本のエリートを潰すなという意味での「個性教育」を叫んでいます。日本のビル・ゲイツやステイーブ・ジョブズを普通の人にしてしまうなという意味です。

 別な一部は(主として保護者や市民団体ですが)、ウチの変な子もそのまま大切にしてほしいという意味で「個性教育」の必要性を説きます。

 両者に共通なのは「個性(を尊重する)教育」という空虚な概念で、向かう方向は全く反対です。しかし「個性教育!」と合唱することはできます。

 もうひとつの思い違いは、日本の場合、「すべての子どもが達成しなければならない内容と、それを越えて獲得することが期待されている内容が混同されている」というその“混同”に私自身が巻き込まれていたということです。

「個性教育」というのはまさに「それを越えて獲得することが期待されている内容」に含まれることなのです。

 例えば私のような凡人までもが片端、個性的な生き方を追求して多様性を訴えたりしたら、日本はあっという間にバラバラになってしまいます。

 以上、考えているうちにまた、しっくりこなくなりました。この問題、しばらく寝かせておきましょう。