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「わが教室の詩羽」~水曜日のカンパネラの詩羽をどう扱うか②

 自分のクラスに才能にあふれた「わが教室の詩羽」がいたら、
 私はあの異装を改めさせようとするだろうか、できるだろか。
 並外れた個性だからあの子は特別だとクラス認めさせるのか、
 はたまた皆が似たような服装や化粧をする学校社会を目指すのか。
 という話。(写真:フォトAC)

【わが教室の詩羽】

 「水曜日のカンパネラ」の詩羽に一気に引き込まれ、《これいいな》と思うと同時に頭に浮かんだのが、《オレのクラスにこの子がいたらどうするんだ?》という、今では非現実な(教師でないから)、かつては非現実とは言っていられない(教師だったから)想定です。昨日に続くサブタイトル「水曜日のカンパネラの詩羽をどう扱うか」はそういう意味です。

 ただ、考え始めたときは詩羽と同じレベル、同じ感じの子が私の担任するクラスに転入してくる、または私が赴任した先の学校にすでにいる、といった想像をしただけで、あまり深い設問ではなかったのです。けれどじっくり考えてみると、転入しにしても前の学校を追い出されてきたのと単なる親の転勤によるものとでは状況が全く違いますし、私の赴任先にすでにいたとしても、校内で受け入れられているのと孤立しているのとでは、やはり違ってきます。
 条件の置き方しだいでどうとでもなる、これでは設問になりません。やはり思いつきというのはダメなものです。
 
 ただしこういう想定はできるかもしれません。
 私のクラスに飛び抜けて歌のうまい、あるいは容姿や運動能力に優れ、あるいは絵画や文章、その他に特異な才能や自信を見せる生徒がいて、その子が奇抜なファッションで身を包み始める、その異様な風体はもしかしたら異常に繊細な内面を守るための鎧かも知れず、その風貌を棄てさせることは内面の崩壊につながるかもしれない、そんな状況で教師である私は、敢えてその異装をやめさせる指導ができるのか、そういう指導をすべきなのか。

【子どもたちは「わが教室の詩羽」を受け入れるだろうか】

 学校全体が「あの子は特別だからいいや」とか「あの子がああいう格好をするのは無理ない」と前向きに認めているようなら何の問題もありませんから、まず、そうした可能性があるかどうかを探ります。詩羽のような異装を、少なくともクラス全体に受け入れさせることができるか、というということです。
 
 《日本の学校あるいは社会は異端を嫌い、すべてを標準化したがる》というのはよく言われることです。《だから服装や髪型など、校則がこまごまとしたものになる》。
 しかし《諸外国、特に欧米は自由を貴ぶために児童生徒は自由な服装、自由なアクセサリを許されている》と考えるのは間違っていると私は思います。洋の東西を問わず、学校という組織には《自由》よりももっと重要な価値があるからです。《公平》です。

 日本にはとても分かりやすい概念があって、《エコヒイキ》はダメだという言い方で説明できます。。学校で一番嫌われ軽んじられる教師は、今も昔も怖い先生ではなくエコヒイキをする先生です。アメリカでも、もし自分が不公平な扱いを受けていると感じたらとりあえず「フェアじゃないだろう」と言っておけば、どんな場合にも一度は立ち止まり、考え直してくれると聞いたことがあります(考え直しても結論の変わらない場合も多いですが)。
 その最重要の価値《公平》を固く守ろうとしたら、児童生徒を自由にしておくわけにはいきません。必ず規制が必要になってきます。集団の共通性・統一性がないと《公平》は守り切れないからです。

【欧米は手本にならない】

 日本はいいのです。最初から比較的に似た者同士が学校に来ていますから、「髪の毛はこうしましょう」とか「服装はこうでなくてはいけません」とか少しタガを締めるだけで、質の高い学習集団を生み出すことができ、質の高い教育ができるようになります。
 日本の学校が教育過剰で、何でもかんでも指導内容としてしまい、そのために教師の異常な多忙を招いているのは、教育すれば何もかも吸収してしまいそうな優秀な学習集団(児童生徒)がいるからかもしれません。欲が出ます。

 しかし如何せんアメリカはアメリカ、フランスはフランスなのです。これらの多民族国家は多様性が前提です。フランスでイスラム教徒の子女のスカーフを禁止しようとして大問題となったように、一部の服装やアクセサリは禁じることがとても難しいのです。不可能です。
 したがって外見を自由にせざるをえない国々は、内面に切り込もうとします。例えばアメリカでは、今でも始業前に国旗に敬意を表し、国歌斉唱・宣誓を行うといった学校が少なくありません。野球のワールド・シリーズでもアメリカン・フットボールのスーパー・ボウルでも、国旗を掲揚して国歌の大合唱をしないと始まらないのはそのためです。いつも確認していつも強化し続けないと、アメリカ人はアメリカ人というアイデンティティを失いかねないのです。
 
 日本はそうではありません。国会の開会式でさえ国歌を歌わない国です。内面に深く切り込まない以上、だとしたらやはり、我がクラスの詩羽には化粧を落とし、唇ピアスを外させる必要があるのかもしれません。
「Aちゃん(わが教室の詩羽)はお仕事をしていて、あれが必要なのです」と納得させようとしても、《学校へ来る以上はせめて化粧とピアスもやめさせろ》という声は止めようがないはずです。
(この稿、続く)

水曜日のカンパネラの詩羽はこの人です。