カイト・カフェ

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「敬称の話」~師が弟子に敬称をつけて呼ぶ時代

 おそらく2年ほど前ぐらいこと思うのですが、病院で患者を指していう言い方が突然、「患者さん」から「患者さま」に変わりました。そのことを毎年2月に行っている人間ドックで酷い違和感とともに知りました。しかも椅子に座っている私に対して、看護士は何かを説明したり質問したりするのに膝をついて姿勢を低くするのです。なにかコスプレ喫茶にでも行っているような妙な気分でした。看護師という気高い仕事が、卑屈な仕事に見えた瞬間です。

 私が教員になった30年ほど以前、教師は生徒を呼び捨てにするのが普通でした。女の先生にもそういう人は少なくありませんでした。それがいつしか男子には「くん」女子には「さん」をつけて呼ぶようになり、今や全員が「さん」で呼ばれるようになっています。正直に言いますが、大の大人が小さな子どもに「さん」をつけて呼ぶのに、私は今でも違和感があります。

 相手をどう呼び自分をどう表現するかということは人間関係そのものを規定します。たとえば私たちが講演会の講師をお呼びする時、それが有名な作家先生であろうと近所のおっちゃんであろうと、教えを請おうとする以上はすべて「先生」をつけて呼びます。「先生」と呼ぶことを通じて、「師として相手」「弟子としての自分」の位置を明らかにしようとするのです。

 父親を「お父さん」と呼ばせるか「パパ」と呼ばせるか、はたまた「父ちゃん」と呼ばせるかどうでもいいことのようですがこれがけっこう親子関係を規定します。「父ちゃん」はステテコ姿でビールを飲んでも構いませんが「パパ」はちょっとまずいかもしれません。ちょっととまずいかもしれないという心の揺れが、親子の関係に反映します。

 生徒が教師を「先生」と呼び教師が生徒を「〜さん」と呼ぶ、そこには互いに対する温かな尊敬があります。上下関係のない人と人との繋がりがあります。しかしそれでいいとは、私には思えないのです。

「教師も生徒も人間として平等だ」という言い方があります。たしかに生物学的には「同じ人間」だとしても、学校という場において彼我が同じであるはずがないのです。私は以前「知の霊媒師」という話をしましたが、「一個人として私は尊敬してくれなくてもけっこうだが、教師として教壇に立つ私は尊敬してもらわなければならない、なぜならそのときの私は霊媒師のようなものであって、私を通して見える私の背後にあるものは確実に尊敬できるからだ」というのが私の立場です。児童生徒と教師を同じ人間としてみる見方からは、そうした尊敬は生まれてきません。

 いまさら児童生徒を呼び捨てにできる時代が戻ってくるはずはありませんし、その時代を懐かしんでいるわけでもありません。ただし私はこの傾向がさらに進み、病院がそうなったように(面と向かってではないにしろ)児童生徒や保護者のことを「児童生徒さま」「保護者さま」と呼ぶ時代が来るのではないかと恐れています。そのとき混沌としていた上下関係は再構築され、お子さま優位、保護者優位で定着する、つまり私たちが教えさせていただく時代が来るわけです。

 問題なのはそうなった時の私たちの惨めさ卑屈さではなく、そうした逆転した人間関係から人は真に学べず、したがって子どもに力がつかないということです。

 日本語には敬称・尊称・謙称といった魔性の強い言葉があります。こうした魔力をおろそかにすると、きっと恐ろしいことになります。