カイト・カフェ

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「感情で怒るなと言われて詰まる」~子どもの導き方のあれこれ①

 子どもの不正に対して、どういう態度で接していくか――。
 私は当初、怒りをもって対決して行こうと考えていた。
 ところが周囲を見回すと、いろいろなタイプの教師がいて、
 様々な対処の仕方をしていることが分かってくる。
 そこにはある種の類型がある。

という話。f:id:kite-cafe:20210208071408j:plain (写真:フォトAC)

【感情で怒るなと言われて詰まる】

 「感情で怒るな」の意味が分からず、困った時期があります。感情を込めずに怒らないで、怒りの大きさを伝えることは難しいと考えたからです。

 子どもに向かって、
「キミのやったことはとんでもなく大変なことだ。だからその重大さを思い知って相応の責任をとり、深く反省しなさい」
というようなことを、そのまま文章を読むように言っても何も起こらないでしょう。声を荒げ、表情を険しくして、全身全霊で向かって行かなくては人の心は動かない――と私は思っていたのです。そこに立ちはだかるのが「感情で怒ってはいけない」です。

 しかし考えようによっては、私の怒鳴りたくなる思いの何分の一かは自己浄化というか自分の心を落ち着けるためのものであって、本来の目的、「児童生徒に事態の重大さを理解させ、きちんと責任を取らせたうえで2度と同じことを繰り返さないよう強く決心させること」が達成されるなら怒鳴り散らすこともないのです。

【怒鳴らなくても反省はさせられる】

 そこで周囲を見回すと、怒鳴らずとも目的を達成している先生は確かにいます。しかし必ずしも望ましいものばかりではありません。

 ある先生は静かに諭すように話すのですが、その丁寧さがむしろ気味悪く、目は氷のように冷たくて、私が「見捨てるわよ光線」と呼ぶ一種のオーラが継続的に発せられていたりします。今ここで精いっぱい言うことをきかなければ、捨てられて2度と振り返ってもらえないかもしれない、そう思われるほど恐ろしい光です。
 また別のある先生の目からは軽蔑光線とも呼ぶべきものが出ています。その光に当たるとまるで自分が世界で最低最悪、これ以上ダメな人間はひとりもいないといったような卑屈な思いに追い込まれて行ったりします。
 私が子どものころはそんな先生がいっぱいいたのです。今はほんとうに少なくなりましたが。

 さらに、昔だとやたら暴力を振るう先生というのもけっこういて、善悪は別として、子どもに言うことをきかせるという意味ではそれなりに実績もありました。

 しかしそんな「見捨てるわよ光線」も軽蔑光線も暴力教師も、そして私のような怒鳴り散らす教師も、簡単に児童生徒に乗り越えられてしまうことがたびたび起こるようになってきたのです。

 怒鳴り声にも光線にも暴力にも耐えて、指導が終わると何の反省もせずに同じことを繰り返す子どもたちの出現です。反抗ではなく、質の悪い指導無視です。これには手を焼きました。

【怒鳴りもせず、冷たくも見ず、殴りもせず――】

 手詰まりになったころ、私はまた別のタイプの先生たちに気づきます。怒鳴ったり冷たくしたり、あるいは暴力を使ったりもせずとも、目的を達成する先生たち――正確に言えばそれ以前に、「思い知らせ、反省させ、決心させる」という場面すら発生させない先生たちです。
 そもそもそのクラスの子どもたちは、悪いことをしない。

 これもいろいろなタイプがあって、そこにはもちろん人格者がいます。
 日常的にいつも心のこもったためになる話をし、子どもに寄り添って問題解決をしていくような教師です。こころ配りが細かく、小さな問題も見逃さずに早め早めに手を打っていくので問題が起こらないのです。
 あるいはカリスマがいます。
 これは最後まで理解できなかったのですが、人格者でもないのになぜか子どもに魔法のような影響力を行使できる人たちです。そうしたカリスマのクラスでは、教師の言動ではなく子どもどうしの忖度によって物事が動いていくかのように見えます。

 そして意外なことに、癪なことに、大人同士の関係では少々感心しないような人たち――“ちょっとわがままだよな、この人”と思うような先生、あるいは若くてどこかに未熟さを残すような先生の中に、難なくクラスを切り盛りしていく人がいたりするのです。
 よくわからない世界です。

 そんなふうにあれこれ考えているうちに、私は教師個人の性格や資質とは別に、ある枠組みを意識すると、学級経営のうまい教師とそうでない教師たちに色分けができることに気づいたのです。学級経営がうまいと言えば言い過ぎかもしれませんが、少なくとも荒れた学級を生み出さない教師の識別――それが「指導教科別、この先生のクラスが荒れない」(私案)です。

(この稿、続く)