カイト・カフェ

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「本名を隠した人々」~名前を知られると人格を奪われる

 教員でなかったらもっと楽だったろうにと思ったことにひとつに、自分の子への命名があります。何しろ何かの名前を思いついたとたんに同じ名の元教え子の顔がちらつき、「あんなふうになったらかなわん」とか「あの子の名前をもらったら名前負けしそう」とか、余計なことがチラつくのです。

 私の娘は「◯太郎という名前の子は(竜太郎を除いて)絶対にグレない」と信じています。私は「陽子という子はすべて春の日差しのように柔らかく明るい」という信仰をもっていますし、「節子・悦子といった歯切れのよい発音の子は、さわやかだ」という思い込みがあります。義姉は「何しろ赤ちゃんのときから繰り返し耳に入ってくる言葉だから、強すぎる音の名前の子はキツイ子に育ち、柔らかな発音の子は優しくなる」と信じて疑いません。

 しかしそんなことを言うとたちどころに◯太郎という非行少年や性格の暗い陽子さんの情報が大量に寄せられるのは間違いありません。ですから以上はきっと個人的な思い込みなのですが、それにしても名前には何らかの魔力があると言う思いはぬぐえないのです。

 岡野玲子の『陰陽師』の第一巻に、次のような話があるそうです(私は読んでいないので、ある本からの孫引きです)。
 羅生門に巣くう鬼から琵琶の名器玄象(げんじょう)を取り返しに行った安倍晴明(せいめい)と源博雅(ひろまさ)は、鬼に名前を尋ねられる。博雅は尋ねに応じて素直に「源博雅だ」と名乗るが、晴明は「正成(まさしげ)」という偽名で答える。翌日、羅生門に鬼退治に赴いた一行に向かって鬼は「動くな博雅」「動くな正成」と告げる。博雅はそのまま凝固してしまうが、晴明はするすると近づいて鬼を斬り殺す。
「おぬしは不用意に本名をあかしてホイホイ返事をするから呪にかかるのだよ、博雅」
清明は笑う。
というのです。

 これに似たエピソードが劇場アニメ「千と千尋の神隠し」の中にもあります。ハクの助言によって湯屋に職を求めようとする主人公の荻野千尋は、湯婆婆に渡す契約書にわざと違った字を書くのです。私はビデオで確認しましたが、千尋は「荻」の字の最後の部分を「火」ではなく「犬」と書いています。この機転によって千尋は決定的に人格を奪われるのを防ぐのです。

 名を明かしてはいけないという風習は、おそらく奈良時代以前に溯ります。有名な藤原光明子光明皇后)は名こそ知られていますが自身の文章の署名は「藤三嬢(とうさんじょう 藤原の三人目の娘)としか書いていません。
 平安時代になると清少納言紫式部という二人の才媛が出現しますが、清少納言というのはおそらく「清原家の小納言(の娘)」という意味で、紫式部の方は「紫にまつわる物語(源氏物語の主人公たちは“桐壺”“藤壺”“紫の上”といったふうに紫色の花に関わる名前の女性が多くいる)を書いた式部(父親の藤原為時は一時式部大丞の職にあった)の娘」という意味です。そう言えば「更級日記」や「蜻蛉日記」の作者はそれぞれ菅原孝標の女(むすめ)、藤原道綱の母と呼ばれています。いずれにしろ貴族の女性は名を明かないのであり、知っているのは基本的に家族だけでした。また結婚の初夜の明け、新妻のすべきことのひとつは夫に名を明かすことで、それによって生殺与奪の権を明け渡し家族の一員になるわけです。

 では平安時代の男性はとなると、これは公的な場面が多いのでなかなか名の秘匿というわけには行きません。そこでたびたび改名したりお互いを信濃守(しなののかみ)などの役職で呼び合うことでその分を補っていたのかもしれません。

「名はそれほど大切なものだからみだりの外に出してはいけません」ということ、現代にもそんな場合はたくさんあるように思うのですがいかがでしょう。