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「一子相伝とサービス業」~学校教育はどちらでもない

 一子相伝というのは辞書的に言うと、
「学問・技芸などの奥義・秘法を自分の子の中の一人だけに伝えること」(辞林)
ということになります。
(学問や文芸とは異なりますが、以前本校の副校長だった相沢先生は長男であるにもかかわらず家督を継がず、弟に任せたばかりに受け継ぐべきものを渡されなかったと言います。それは先生の家の持ち山のマツタケが群生する場所という、極めて重要な情報です。年によっては数百万円以上の収入を生み出す場所ですから)。

 詰まるところ教育は一子相伝を同時に多数に行うことだと私は考えています。たとえ30人の学級だとしても、学問を教えるという意味で教師と子どもの関係は1対1―「私は、選ばれたお前に秘伝を授ける」という真剣さに裏打ちされたものだと思うのです。浮ついたものだったり軽いものであったりしてはいけません。師は価値あるものだけを与え、弟子は深刻に受け止める必要があります。

 ところで、「教え諭す」には師弟以外に別の仕組みもあります。それは医師と患者、カウンセラーとクライアントのような関係です。
この関係は師弟よりもはるかにゆるいもので、患者は必ずしも医師の言うことに従う必要はありません。「煙草をやめなさい」とか「運動をしなさい」というのは選択肢であって指示や命令ではないからです。患者やクライアントには従わない自由が保障されていて、その点で師弟関係とは異なります(学校で「宿題をしなさい」とか「委員会の仕事をしなさい」と言われたときに、従わなくてもいいと考える人はいないでしょう)。

 師弟関係の場合、弟子が課題を抱えてなければ「師」が与えますが、患者やクライアントの場合は最初から課題を抱えていてそれを意識している―その点でも異なります。患者やクライアントには「ニーズ」があるが、児童生徒にはない、そういう言い方もできます。

「一方が何かを与え他方が受け取る」という点だけに注目すると、一般のサービス業も同じようなものだということができます。しかしこの関係は医師と患者、カウンセラーとクライアントよりもさらにゆるいもので、消費者には完全な選択の自由が与えられています。「煙草をやめなさい」のように心理的ストレスを受けることもありません。

 両者の間にあるのは商品であり、供給者は徹底的にニーズに応えることが要求されます。消費者が望まないものを提示するのは供給者としては命とりですし、それにも関わらず押し付けるのは強要または押し売りです。

 政治家や評論家の一部は「教師はサービス業だ」と言いますが、教育をサービス業だと考えると学校の仕組みは今とまったく異なったものになってしまいます。子どもが与えられるものは「必要なもの」から「ほしいもの」に代わり、保護者も「より少ない投資で最大の利益を目指す」という消費者行動に走り始めるからです。

「教育はサービス業だ」と言われるようになってから「教育」は終わってしまったと私は思っています。そしていま学校で起っているのが、まさに児童・生徒・保護者の消費行動なのです。しかしこれについてはいつか改めてお話ししましょう


【付記】
 言うまでもなく学校は学問だけを教える場ではありません。学校の中には「人間関係を学ぶ」という側面があり、その面は一子相伝という訳にはいきません。児童生徒会活動や各種行事を通して子どもたちは社会を学ぶわけですが、そこには一子相伝とは異なる論理が働いています。
 それは、具体的な活動の中から師の言葉を介さずに学ぶ「経験主義」です。