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「学校は非常識であるべきだ」~漢字の止めや撥ねをうるさく言い、教師が異常に働く学校に常識を求めない

「学校の常識は社会の非常識」ということについてお話ししようと思い、少しネットで調べてみました。やってみると検索ではかなりヒットするのですが、いずれも「学校の常識は社会の非常識と言われますが、注意しましょう」みたいな話ばかりで具体的な非常識の内容はなかなか出てきません。それでも、ほじくっていくと、

「態度がでかい」「居丈高だ」「挨拶や電話での応対が横柄だ」といった教員の態度に関するものが半分、

 あとの半分は「体育館で直接床に座らせる」「校舎に入るときに靴を履き替える」「(遠足などで)、出発時間の30分も前に集合時間を設定する」「上の人(校長・教頭など)の言うことを聞かない」「勤務態度がルーズだ」「服装がだらしない」「名刺を持っていない」等々、あるいはPTAの会合で教頭が「では、校長先生のお話を伺います」と言ったとか、教員同士が同僚を指して「◯◯先生」と言ったとか、いずれも「そんな会社がどこにあるのか」といった方向での批判です。

 前者についてはある程度受け入れてもいいといった気持もあります。考えてみれば、普通の人々が日常で会う他人は、ご近所さんや友だちを除くと、すべて商店の販売員だとか宅配便の配達員だとか、あるいは市役所の窓口だとか、いずれにしろその人が客として向かい合う他人です。彼らはいずれも接客のプロで十分なスキルを持っています。
 もちろん教員は接客業ではなく授業や生徒指導が第一ですから接客なんか下手でもよさそうなものですが、日本人は消費者としての生き方に慣れすぎています、そうした要求にもある程度応えていかないと社会は回って行かないのかもしれません。

 しかし後者について、私は大部分に否です。だって学校なのですから、社会と同じでは困るのです。

 今の世の中で自転車に乗るのに手信号を出して曲がる人はいないでしょう。そもそもヘルメットをかぶって自転車に乗る人だって稀です。でも学校ではそうしなさいと教えます。車のほとんど来ない夜の交差点の赤信号を、しっかり守って立ち尽くしている大人はバカです。しかし学校は「融通をきかせて渡りなさい」とは絶対に教えません。字なんて読めればいいのです。美しい字を書けるのはすてきですが、トメだのハネなどやたら細部までこだわって書く必要はありません。それが社会の常識ですが、学校ではうるさく教えます。

 私たちは勤務時間を超えて日曜日も祭日働くことが期待されていますし、自分より大きな生徒に殴られても反撃できません。

 校長は社会的には大した人ではなくなっていますが、学校では絶対的権威としての擬制(フィクション)を守っています。そうした擬制がなければやっていけない、あるいはそうした擬制を守っていた方が便利な状況が学校には残っているからです。

 学校というところは至高聖所でなくてはなりません。学校に世俗の常識を入れると学びの場ではなくなってしまいます。それは社会では誰でもやっていることとして、イスラム教徒にブタ肉を食べさせヒンズー教徒に牛肉をふるまうのと同じくらい愚かなことだと思うのです。