昨日、校長先生がハイチでも四川でも、死者何万人と言ってしまうと数値の中のひとつでしかないが、そのひとつひとつはかけがいのない命である、そのことを忘れてはいけないし子どもに伝えて行かなければならないという話をされました。
それでふと思い出したのですが、学校にかかわる事件事故があったとき、「命の教育」「命を大切にする教育」に努めたいといった言い方がなされます。あれは実際に、何をすることなのでしょう。私にはそれが分からない面があります。
日常における命の教育というのは分かります。しかしいざというとき、ここ一番というとき、自分の血や肉を大切にいとおしく思うような教育というのは、どうあったら良いのでしょうか。
「身体髪膚、これを父母に受く」という言葉があります。
「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」
(からだは髪や皮膚に至るまで、これは父母からいただいたものである。意味もなく傷つけないのは、それが孝行の第一歩である)
「孝経」という中国の古典の中にある言葉だそうです。昔の人は繰り返し使っていたようですが、その意味は分かっても感覚として捕らえることは厄介です。
この身体と魂のあることを、心より親に感謝し大切にしなさい、そう言われて昔の人はそのように思い行動に移せたのです。翻って現代の私たちに、そういう感覚はあるでしょうか。昔の人はできたのに今はできない、それがなぞです。
昔の人は漢文の素養があったからだとか、教育勅語のおかげだとかいったことは的外れでしょう。言葉でいいきかせてその通りになるなら、道徳なんてまったく楽なものです。
そうではなく、何らかの理由によって、彼らは身体そのものを親からの賜りものとして感謝できた。
私はしばらく、そのことを考えてみようと思っています。