夏休み中のテレビ番組で、出演者の一人が「修身」の復活を話題にしていました。ユニークなのはまず大人に読ませてその価値を理解させ、戦前の道徳教育にたいするアレルギーをなくしてもらうという点です。
確かに「修身」は実際に読まれたり検討されたりしないまま忌避されているふうがあります。提案者は“読めば大半の人が感心し「修身」に対する恐怖感ないしは嫌悪感を払拭することができる”と確信しているようで、大人の認知を経たうえで、学校に導入しようという腹づもりかもしれません。
それに対して出演者の一人が、
「しかし今の日本の教師のレベルで教えてもなあ・・・」と嘆き、
別の一人が、
「だからどんな教師が教えても有効な教科書というものが必要になる」
と続けます。
私はそのとき、頭の中が数か所、一瞬に焼けて断線するのを感じました。何も手にしていなかったからよかったものの、コーヒーカップでも持っていたら我が家のテレビが重大な危機にさらされるところでした。
普通の人ならともかく、社会的に影響力のあるこの人たちが、そんな愚かなことを口にしては困るのです。
――こいつら教育も学校も修身も歴史も、何もわかっていない。
私は品のいい性質なので口にこそしませんでしたが、腹の底は煮えくり返っていました。
しかし、とりあえず穏やかなところからいきましょう。いくつも腹の立つことのある中で、最も怒りのレベルが低い問題から扱いましょうということです。
「『修身』も、忠君愛国といった国家主義あるいは軍国主義的な部分を除けば非常に良いところがある。親孝行、兄弟や友だちを大切にしろといった点は現代にも通じ、重要な徳目であるといえる」
ときおり耳にする話です。これは「教育勅語」を支持する立場も同じで、文中の「修身」を「教育勅語」に置き換えると全く同じになります。
確かに、「教育勅語」の、(口語訳で)
「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じ合い、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい」
といった部分が悪かろうはずがありません。
「修身」に出てくる吉田松陰や上杉鷹山、ジェンナーやナイチンゲール、野口英世といった偉人の物語も、同じように悪いはずはないのです。「木口小平は死んでもラッパを口から離しませんでした」といった話は使いようがありませんが、内容の大半は道徳的に「いい話」なのです。
しかしそうした「いい話」なら、19世紀以前まで戻らなくても、いくらでもあるでしょう。
吉田松陰や上杉鷹山の代わりに新渡戸稲造や白洲次郎はどうでしょう(このあたりは異論があるかもしれません)。ジェンナーやナイチンゲールの代わりにマザーテレサや「国境なき医師団」、リンカーンではなくネルソン・マンデラ、野口英世ではなくて山中伸弥。直近の話題で言えばマララ・ユルフザイなどは年齢的に身近で、とても扱いやすいはずです。
市井の人なら新大久保駅で線路に落ちた人を救おうとして自らも命を失った日本人カメラマンと韓国人留学生の話、御岳山噴火の際こどもを守って噴石の盾になって亡くなった人たち。自分の命の危険も顧みず奮闘したということであれば東日本大震災のエピソードの中には、いくらでも題材がありそうです。
実際に、各教科書会社から出版されている道徳の副読本(*)には素晴らしい、心温まる物語が満載です。しかし一般の教師たちはそれでは物足りず、さらに有効な教材を探してあちこちで奮闘しているのです。
世の識者たちは現代道徳の副読本を読んだこともなければ、おそらく「修身」の教科書にも当たったことがありません。比較検討すれば、「修身」の復活に意味も可能性もないことはすぐに分かるからです。それなのに一端の論理を重ねて今の日本の教育を批判する――私はそれを「マスメディアの自虐的教育観」と呼んでいます。
ただし、私の想像に反して”識者“たちがすべてを承知の上で敢えて「修身」に戻れというなら、そこには道徳的価値以外の何かの目論見があるはずです。
*「道徳」は「教科」ではなく、「教科」の上位に立つもので「学校の全教育活動を通して行うべきもの」とされているために教科書はありません。その代わり授業の助けとして各社から「副読本」が提示されています。
*私だって「教育勅語」くらい原文で読める――そういうところを見せたくて、一度はそのまま載せたのですが、旧漢字満載の記述はブログ上で文字化けした上に、その部分以降は消えてしまいます。まさかドイツで「我が闘争」が出版できないように、我が国でも「教育勅語」が扱えないようになっている、というわけではないでしょうに。ちょっと悔しいです。