カイト・カフェ

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「『坊ちゃん』でも教員が務まった時代」~結局、子どもたちが偉かったという話

 夏目漱石の小説の主人公『坊ちゃん』は典型的なADHDだという話を聞いたことがあります。

  • 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛びおりて一週間ほど腰を抜かした事がある。
  • そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。
  • 母が病気で死ぬ二、三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと言うから、親類へ泊りに行っていた。
  • 兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと言った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。

 冒頭の部分だけでもこれだけまとまって出てくると、確かにそんな気もしてきます。
 しかし私がむしろ惹かれるのは、そんな『坊ちゃん』でも教師が務まったということです。「赤シャツ」だって「野だいこ」だって「うらなり」だってろくなものではありません。しかし教員としてやっています。

 坪井栄の名作『二十四の瞳』の大石先生も、年中ビービー泣きながら子どもの後を追っているような典型的な指導力不足教員でした。しかし担任を変えて欲しいといった話はまったく出てきません。
 何が違うのかというと、結局、子どもが偉かったと言うしかないのではないかと思ったりもします。

 偉いと言えば『3年B組金八先生』に出てくる子どもたちも立派です。彼らの最も優れた点は、どんな不良少年たちも自己の心の中をきちんと言語化できるということです。心のあり方を言葉にできれば、問題の半分以上は解決したも同じです。
 もうひとつ優れているのは、反省すれば必ず生かせるという点です。そこには昨日お話したような「分かっちゃいるけどやめられない」といった曖昧さは、カケラもありません。 
 金八先生が説教だけで子どもを動かすのは、言語と言語の戦いだけですべてが済まされる非常にクリアな人間関係しかないからです。

 私たちの住んでいる世界とは別の世界の物語です。