昨日、読み聞かせをしながらふと思い出したことがあります。
ひとつは、
「桃太郎」と「花さか」は、お婆さんが桃を拾ってくるところまでは全く同じ話だということです。桃を切って男の子が出てくれば「桃太郎」、うすで冷やしておいた桃が犬に変わっていたら「花さか」です。
もうひとつは「枯れ木に花」の科学的考察についてです。
同じ灰を撒きながら、親切爺さんだと満開の桜になり、意地悪爺さんだと灰が舞い散って殿様の目を傷つけたのはなぜかという問題です。
一方は親切で、他方は意地悪だからというのは答えになりません。科学の世界では、誰がやってもリトマス紙は酸性で赤くなります。同じように、同一の灰を撒けば結果は同じでなくてはなりません。
にも関わらず一方が満開で他方が灰のままだという事実があるとしたら、それは結局灰の受け手である「枯れ木」の方に差があったと考えるのが妥当でしょう。つまり親切爺さんが見事な枝振りの枯れ木に向かって灰を撒いたのに対し、意地悪爺さんはほとんど枝のない貧相な枯れ木に向かって灰を撒いた、だから大部分の灰が灰のまま空中に飛散した、そう考えると納得ができます。
さて、似たような経験は私たちにもあります。
「教師という爺さん」が「知識」という灰を撒く。同じように撒くのに、定着しやすい者とそうでない者が出てしまう、その差は何かということです。そしてこれも結局は枯れ木の枝ぶりの問題なのです
学習心理学ではそれを「先行オーガナイザー」と言うのだそうです。知識を受けるに先立って、十分受け取るだけの準備や仕組みのことをいいます。
たとえば、今日テレビドラマ「風林火山」を熱心に見ている子は、何年か先に戦国時代を勉強するとどんどん知識がついていくはずです。逆に、「信玄、誰?」と言っているような子は、戦国時代と言ってもぴんと来ないところから初めなくてはなりません。
これでは差がついても仕方ないでしょう。
小さな頃はたくさん遊んでおけというのは、そうした先行オーガナイザーを十分に育てておけということです。毎日ニンテンドーDSをやって、たまにディズニー・ランドに行けばいいというものではないのです。