私はすべての教育談義が事実の検証を前提としないことが不思議で仕方ありません。
例えば、学力問題でも、本当に学力が落ちているのか、落ちているとしたらそれは教師の指導力低下のせいか、といったことは一切検証されません。
不登校について言えば、それが何かという合同検証会議といったものも一切行われず、皆が好き勝手なことを言っています。
いじめについて言えば、私は少なくとも五つに分類しそれぞれ別な対応がなされるべきと思っています。
- 「ドラえもん」のジャイアンのような、片端いじわるをするような古典的ないじめ。
この場合、いじめられる側はお互いに「お前もやられたの?」と連帯できるので問題は大きくありません。 - 被害者意識を起因とし、表面的には「アイツを治してやる」という形で行われるいじめ。
もっとも扱いずらいいじめ。 - 嫉妬に起因する嫌がらせ。
これは学級レベルの広がりを持たないから深刻になる必要はない。 - 恐喝など、いじめることによって明らかな利益のある場合。
これは犯罪なので無条件に警察と連携してよいケース。 - 通常の人間関係トラブルを「いじめ」と意識する子の訴えるいじめ。
しばしば彼らはいじめの加害者でいる時間の方が圧倒的に長い。にもかかわらず、自分に番が回ってきた時には「いじめだ」「いじめだ」と大騒ぎし、時には引きこもる。
しかしそうした分析なしに、「いじめ」はすべて「いじめ」です。
特に5番のよういな場合、「本人がいじめだと意識すれば、それはいじめだ」という定義を当てはめると、それまで大騒ぎをせず我慢してきた子たちは全員加害者で、彼らはさんざんやられてきたにもかかわらず、一度反撃しただけで「いじめの加害者」にさせられてしまいます。
本来はこうしたこともきちんと検証し、対応を分けなければならないと思うのですが、教育問題については、とにかく状況分析ということは避けられています。
不思議ですね。