カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「道徳の二面性」~正義だけが問題じゃない

 児童が汚い言葉を使う、という話がありました。

 保護者と話をしていて、「この子をどんな生き方をしてほしいですか?」と問うと必ず出てくるのが「他人に迷惑をかけず・・・」という話です。そして家庭での道徳律がそれしかないような子どもも、まま見ます。他人に迷惑さえかけなければ何でもやっていいと考えているような子たちです。しかし道徳はそれだけではないでしょう。「他人に迷惑をかけない」だけだと、「あいさつをしなさい」とか「足を上げてご飯を食べてはいけません」とか「パジャマで外を出歩いてはいけません」といったことは説明できなくなるのです。
 実は、道徳にはもうひとつ大事な側面があります。それは「美しく生きる」という
ことです。

 あいさつをしたりマナーに従って食事をしたり、服装をきちんとしたり正しい日本語を使ったりすることは、すべて「美しく生きる」ためなのです。昔の武士は汚名を着せられると自害までして抗議することがありましたが、それは家や自分の「美」を守るためでした。昔の日本人は美しさのために命までかけたのです。

 そのくらい美しいことは大切なのに、「他人に迷惑をかけない」が理屈で説明できるのに対し、「美しく生きる」は理屈ではないので論理で語り聞かせることができません。
 モーツァルトの曲やユトリロの絵を美しく感じるためには、たくさんの美の体験をしなければならないのです。同じように美しい生き方というものが何かを知り、それをしようと思うにはたくさんの美の体験が必要となります。

 そこで、かつての行儀作法の先生は問答無用でビシバシと、物差しか何かで叩いては教えたものです。何か言おうとすると、「お黙り!」決まり文句の返事でした。しかし現代ではそう簡単に叩くというわけにはいきませんし、「お黙り!」と言えばかえってうるさくなる場合だってあります。

 ひとつには、美しい言葉遣いや仕草のできる子たちの言動を、みんなの前で賞賛して、何が良いのかを知らせていくことが必要でしょう。「アレ? ◯◯ちゃん、今の言い方ステキだねぇ」「それって、きれいだよね」ということです。

 もうひとつは、「それってきれい?」と相手に詰め寄っていくことです。美しいかどうかを価値基準として生きるなど、子どもたちは教わってきていませんから、私たちが学校で教えるしかありません。
「ねえ、それって見ていて美しくないでしょ?」「そんな言い方をしてると、キミの心が汚れて見えるよ」「あ、その言い方ね、それって美しくないんだよ」

 美意識というのは個人のものですが、民族固有のものとして、あるいはユニバーサルなものとして、人々に共通のものもあります。
 それらは誰かが教えないと身につきません。親がやらないなら、私たちしかいないのです。