「日本はどうなっていくのだろう」④

  昨日は、最近の教育改革の流れには、グローバル社会の「知」の競争に打ち勝つために国際的に通用する人材を育成する必要があり、そのために初等中等教育段階で「世界トップ」の学力と英語力を身に付けさせる、という方向があると書きました。

 しかし現実の社会で自分たちの周りを見渡して、『グローバル社会の「知」の競争』に参戦している人が何人いるのかというと、実際その数は非常に限られてきます。少なく私の家族や親せきの中にはいません。また、遠い将来を見越しても(どこかの英語圏の国の植民地にでもならない限り)、日本人全員が「世界トップ」の学力や英語力を必要とするような時代はきません。

 もちろん本旨は、全員を鍛えることでトップエリートの実力を高めようというところにあるのでしょうが、学力の底上げをすればピークが高まるというものでもないでしょう。

 日本は1億2600万人を擁する大国です。そこにはすでに1万人に一人という学力エリートが1万2600人、1万人に一人という英語名人が1万2600人もいるのです。
 これだけの人材を擁しながら、それにも関わらず外交交渉や商取引、あるいは学術競争でしばしばほぞを噛んだり煮え湯を飲まされたりするとしたら、そこには学力や英語力よりもっと大切な要素があるのです。実はそんなことはみんな分かっているのです。私たちに欠けているのは学力でも英語力でもなく、敵を完膚なきまでに叩きのめす勇猛な闘争心です。

 ユーラシアのある国では停まっている車にぶつかっても「バカヤロー!」と叫ばなければならないと言います。「なんぜこんなところに車を停めるんだ!」ということです。そこにはぶつけられた時にさえ「すみません」から話を始める日本と決定的な文化の違いがあります。

 それは国家レベルで言えば、他人の領土の領有権を主張してみせたり軍を動かしたり、国民を犠牲にしてまでも原爆を開発したりミサイルを飛ばしたり、あるいは普遍性のない正義を振りかざしてゴリ押しするような、そんな力です。個人のレベルで言えば2005年のニューオーリンズや2008年の中国四川、2010年のハイチが見せた、国民の強力な“生きる力”です。そうした観点からすれば2011年3月11日の日本人など、全くだらしがなかったことになります。

 私は基本的に、国際的な舞台で丁々発止のやりとりができるようになるには、これまでの日本人の生き方や考え方を根本的に変えていくしかないと思っています。子どもたちが「他人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて育つ国から、「他人に勝ちなさい」「頂点に上りなさい」と教えられる国への転換です。よりうまくやりぬき、他人を出し抜いたり騙したりすることも優れた能力と称賛される国への転換です。かつての小沢一郎さんの言葉を借りれば「日本を、当たり前の普通の国にする」のです。

 もちろん教育再生会議も懇話会もそんなことは言っておらず、
 教育は国家百年の大計です。知・徳・体のバランスのとれた教育環境が整備され、健やかな子供が育まれることは国民の願いです。特に、最近の社会状況に鑑み、学校教育における徳育の充実が不可欠です。
と、むしろ道徳の重要性を説いています。これは二律背反でしょう。

 国際社会で勝ち抜く力をもった人間の育成と道徳性、それをバランスよく行うことは不可能でしょう。あとは私たちの心がけ次第です。