カイト・カフェ

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「これからの課題」~発達障害のもんだいについて

 昨日はご苦労様でした。
 高機能広汎性発達障害の問題は、今後私たちの世界で最重要の課題となりますから、これからもこうした学習会を続けていく必要があります。

 先日個人的に出た講演会では、不登校の三分の一は広汎性発達障害との関連性が疑われ、いじめ問題も(特に被害者として)広汎性発達障害との関連を抜きに話をしてもムダだといった指摘がありました。私もそのように思います。

 アスペルガー症候群を始めとする自閉圏の人々は、自閉症スペクトラムと呼ばれるひとつながりの流れの中にいますから、どこまでが健常者でどこから障害者なのか区別をつけることが困難です。特定の個人を見れば「明らかにその傾向のない人」と「少し風変わりだがさして支障のない人」そして「明らかにそうした傾向の見られる人」に分けることができますが、その三人の間をたくさんの人が埋めているのです。
 LDもADHDもまったく同様で、どこまでは許容の範囲かはむしろ私たちの側にかかっている場合も少なくありません。
 さらに、同じ程度の障害でもその表現は多彩で、何かをつかんだと感じてもすぐにケース・バイ・ケースにはまり込んでしまい、有効な対応策に出会うことは稀です。いずれにしろ研究もまだまだ端緒についたばかりの段階ですから、私たちが学びながら、それを見つけていくしかないことです。

 こうした高機能広汎性発達障害の子どもたちが増えたことに関して、それを自然環境の悪化に帰することには、私は不賛成です。環境フェロモンやら大気汚染、食物汚染げ原因なら、私たちよりもはるかに小さな生き物にまず影響が出るはずですが、特定の小鳥が生殖をやめてしまったとか、ホトトギスが托卵をやめてしまったということでもない限り、にわかに信じがたいところです。
 人類はまだ進化を続けているのであり、そのひとつの流れとして高機能発達障害があるのだと考える人もいますが、別の方向への進化が明らかにならない以上はこの考えにも同調できません。

 私が現在考えているのは、かつても同じ傾向を持った子どもたちはたくさんいたのに、厳しい社会慣習や慣行、躾け、地域子ども社会の容赦ない攻撃によって、むりやり矯正(ないしは成長)させられてしまっていたのではないか、というものです。少なくとも昔の子どもが今の子どもより、質・量ともにはるかに重厚な人間関係を持たされていたことは事実です。
 そうであるなら、まだまだ教育でこの子たちを救う可能性はあるはずです。昔の子どもは味わった過酷な強制ではなく、より教育的な方法によって生き方を学ばせることができるからです。

 とりあえず私たちが学び、努力しましょう。