カイト・カフェ

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「ラブレターを書くように、子どもを誉める」~表現という恍惚②

 太宰治という人はラブレターについても天才的で、延々と用件だけを書いた手紙の最後に「恋しい」と一言書いて切り上げるような、手の込んだことをしたそうです。
「あなたはいつか、今よりもずっと激しく人を愛することがあるかもしれません。しかし今よりも愛されることはないのですよ」
 そう書いたのも太宰治だったような気がします。
 文章における表現力というのは、言わばライバルを撃破するような強力なラブレターを書く能力です。例えば「愛している」といった同じ表現で勝負すれば、ライバルとの違いは男性としての魅力だけということになります。それでは太宰のようなチンケなブ男では勝負にならないのです(私も同じです)。男性としての魅力に欠けるなら、表現力において他を凌駕することを考えなくてはなりません。

 短歌はそうした表現力の結晶といってもいいようなものですが、それを理解するためには、様々な技能が必要です。例えば、
 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
という西行の歌では、意志を表す「死なん(死なむ)」という言葉の語感、「きさらぎ」という歯切れの良い単語の冴え冴えとしたイメージ、「花(=桜)」にまつわる死の印象(梶井基次郎のいう「桜の木の下には死体が埋まっているんだよ」といった感じ)、「望月」の持つ「完全・完結・パーフェクト」の印象、そうしたものが共有されなければ理解できないのです。
 もっと簡単に言えば、矢ヶ崎先生のダジャレはそのままで2年生に通用するのかといった問題です。

 表現の恍惚というのは、そういったものがまさにツボにはまる瞬間のことをいいます。こちらの意図したことがストレートに相手に伝わり相手を動かすこと、動かすだろうと信じられる言葉や言葉の組み合わせに出会うことです。

 私たちはしばしば「誉めて育てる」ということをいいますが、なんでもかんでも「すごいねー」と言えばそれでいいというものではありません。子どもを動かし、子どもを育てるためには子どもに通用する誉め方をしなくてはならないからです。そこには誉める内容の選択、誉めるタイミング、より効果的な誉め言葉の選択、誉める時の表情、誉めたあとの処理などの「誉める技術(誉めることの表現力)」の問題があるはずです。
 誰かを好きになってくどき言葉を必死に考えたあの日を思い出し(そんな経験は私だけかしら?)、子どもを動かす表現力を身につけたいものです。