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「与謝野晶子がゲーテを一蹴するマンスプレイニングの話」~ブランド名の由来とマンスプレイニング③

 男性が、若い女性や子ども相手に蘊蓄(ウンチク)を垂れるハラスメント、
 それをマンスプレイニングというらしい。
 しかし昔から男の子は知ったかぶりと相場が決まっているではないか。
 与謝野晶子なら軽く一蹴するところだ。
という話。サンティアゴ・ルシニョール 「ロマンス」(部分))

【「ブラタモリ」に人権上の問題が・・・】

 NHKの看板番組のひとつ「ブラタモリ」が今年度をもってレギュラー放送を終えるそうです。その発表を見た文化人類学者で愛知県立大学の教授:亀井伸孝という人が2月14日、自身のX(旧ツイッター)で、
『#ブラタモリ が、レギュラー放送終了とのこと。
 内容はよい企画だったと思いますが、「高齢男性が若い女性に蘊蓄を垂れる」という「マンスプレイニング」の構図だけは、ずっと気になり続けていました。
 次は、女性が男性にこんこんと説教する番組をやったらいいと思います。それでバランスが取れます』
と呟いたところ炎上。しばらくネットニュースの片隅で論争になりました。

 構図とすれば、
「『ブラタモリ』でタモリはアシスタントに蘊蓄など垂れていない、むしろ専門家の蘊蓄をタモリが聞く番組だ」
といった”番組の無罪”を主張する声が8割5分。
「そもそも高齢男性は若い女性に蘊蓄を垂れてはいけないのか?」
とマンスプレイニングという”概念の妥当性”を問題とする立場が1割5分と、そんなところでした。
 あっという間に783万人もの人々が閲覧し、740件ものコメントと2700ものリポスト、1750件もの「いいね!」がついて――しかし本人が、何の説明も、言い訳も、謝罪もせず、ひたすら他のXからのリポストで記事を紡ぎ続けたため、炎上の火が収まるのもあっという間でした。

 私自身は「マンスプレイニング」という概念が新鮮だったことと、世の中がハラスメント事案だらけになってかなり苛ついているといった個人的理由によって、もう少しこの言葉にこだわってみようと思いました。

【ウンチク垂れって、無邪気だと思いません?】

 さて、私は一昨日昨日と、ファッションやチョコレートのブランド名の由来についてあれこれ調べ、話をしてきました。いままで気にもしなかったことの中に飛び抜けて面白い話があり、軽く見過ごしてきた事物の中にもこだわって見るべきものがある――そういうことを知って、私は嬉しくて嬉しくて仕方がないのです。
 だからひとにしゃべりたい。しゃべって「へえ」とか「凄~い」とか「面白~い」とか言ってもらいたい。昨日調べたばかりの鈍らな知識ですので「よくご存じですねぇ」とか「さすが社会科の先生!」とか、私自身を誉めてくれる必要はないのです。ただ一緒に喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、面白がってもらいたい、その上でさらに相手が、
「じゃあジョニー・ウォーカーのラベルって、歩いていなくてもジョニー・ウォーカーだって知っています?」
と被せてきたらそれはそれで面白いわけで、私の方も改めて自分の持ち札を探します。切磋琢磨で知識も増えます。
 でもこれって、典型的なウンチク垂れ(なんか汚いなあ)ですよね? 私は十分に高齢者ですから、読んでくれる人が若い女性だったりすると、これも典型的な「高齢男性が若い女性に蘊蓄を垂れる」行為、つまり「マンスプレイニング」に当てはまってしまいます。
 しかも私は今や古希。世の中の女性の7割以上は私より「若い」のです。誰にも話せない――。

【マンスプレイニングとは何か】

 「年寄りの男は女性に蘊蓄を語ってはいけない」というのではいかにも差別ですから「マンスプレイニング」の定義を確認しておく必要があります。そこでWikipedeia を紐解くと、こんなふうになっていました。
『マンスプレイニング(英語: mansplaining、男(man)と説明する(explain)という動詞の非公式な形のsplainingのブレンド語)は、「(男の)見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で女性や子どもに何かについてコメントしたり、説明したりする」という意味の批判的な用語』
――いっこうにすっきりしません。

 不正確かどうか、過度に単純化されているかどうかはある程度客観的に評価できますが、「見下したような」「自信過剰な」は男性の意識というよりは受け手(この場合は女性や子ども)の意識です。いじめやセクハラの定義と同じで、被害を受けたと訴える側の判断で決まります。また、相手次第ということになると基準線は最も低いところに引かれる――つまり、
「男性、特に高齢な男性は、女性や子どもに何かについてコメントしたり、説明したりしてはいけない(偉そうに言われたと傷つく人がいるかもしれないから)」
ということです。
 でもこのルール、すべての男たちが誠実に履行したら、女性や子どもたちは幸せに、社会はより良くなるのでしょうか? 女性の知識は全体に共有するが、男性の知識は男性どうしの中に留めておいた方がいいという、そういう世界です。

ゲーテ曰く「男が教え、女が学ぶとき、勉強ほど楽しいものはない」】

 この言葉、もちろんアウトです。許されるのは、女性自らが学ぼうという態度をみせた場合だけです。「教師が教え、生徒が学ぶとき、勉強ほど楽しいものはない」というだけの話ですから、学校や塾の先生が女性を教えることには何の問題もありません(内容的には妥当性を欠いてしまいますが)。
 しかし義務教育の場合、児童生徒は必ずしも学びに来ているとは限りませんから注意が必要でしょう。「教える」という上からの態度ではなく「支える」という下からの態度に徹した方が安全です。「見下す」ようではなく「見上げる」ように、「自信過剰気味」ではなく「自信なげ」「頼りなげ」に、そういう態度こそ現代の教育者には望まれます。

 もちろんそれ以外の、普段の生活ではさらに神経質になる必要があるでしょう。たいていの男の子は知ったかぶりですが、それを年下の女性相手に披露するとマンスプレイニングの誹りを受けかねません。世の中の半数は女性、4分の1が子どもですから、気を許して対等に話せる大人の男は、全体の8分の3(約38%)しかいないのです。緊張していきましょう。
――しかし何か違うような気が、しませんか?

与謝野晶子は鉄幹に鉄拳】

 マンスプレイニングという概念は「女性や子どもは弱い者だ、無知だ」という思い込みの上に成り立つハラスメントです。したがって強い女性や強い子どもには通用しません。
 明治時代の有名なパワハラ・セクハラ・マンスプレイニング男の歌人与謝野鉄幹が偉そうに人間の生き方、歌人のあり方を語っている際中、愛人の鳳晶子(のちの与謝野晶子)は何を考えていたのか――。
 有名な話ですからたくさんの人が知っていますが、こんなふうに思っていたのです。
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(やわ肌の下の熱く燃えたぎっている私の血汐に触れようともしないで、寂しくはないのですか。知ったふうに道を説くあなたって人は)*1
 マンスプレイニングに対する正しい態度というのはまさにこれです。
「(男の)見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で女性や子どもに何かについてコメントしたり、説明したりする」
――その態度を丸ごと見下してやればいいのです。
 怒ったり傷ついたりするのではなく、これを書いている私も含めて、知ったかぶりは、「無邪気なもんじゃのう」とか言って掌の上で転がしていればいい。
 その態度があまりにも人をイライラさせるものだったり時間が惜しいなら、遮ってこう言えばいいのです。
「私、その件については興味ありませんので、これ以上伺うことは、いたしません」
 この人間社会を生きて行く以上、その程度の強さは身に着けてしかるべきじゃないですか?
 私はそう思います。
(この稿、終了)

*1:
*この記事には不適切な表現が含まれますが、時代による文化・風俗の変遷と、その是非を問うことを主題としているため、あえて明治の考え方・表現のままで記述しています。