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「認知(行動)療法と警察の取調室」~指導助言の質を高める方法⑤

 認知療法認知心理学に由来するものではなく、
 精神分析学や行動療法の限界を越えて出てきたものだ。
 その方法は記述と評価と対話。
 警察の取り調べに似て、実に興味深い――、
 という話。(写真:フォトAC)

【「認知」「療法」という矛盾】

 認知療法という言葉は早くから耳にはしていましたが、正面から向き合ったのはずいぶん遅く――というか、ほとんどつい最近になってからのことです(注:古希の人間の「つい最近」は10年~20年くらい前のことも入ります)。
 私の知っている認知心理学心理療法という言葉がうまく噛み合って来なかったからです。本気で向かい合うのを厭う気持ちもありました。だって認知心理学者って半分は脳科学者みたいな感じで、航空機の操縦席のデザインをしていたかと思うと、奇妙な縞模様の中に文字が見えると言い出したり、12個のおはじきを、間隔を置いて並べる場合と詰めて並べる場合を比較すると、幼児の大部分は間隔のあいた方が「数が多い」と言うとか、4歳児はほぼ確実に「エレベーター」を「エベレーター」と発音し、「テレビ」は「テビレ」に、「アレルギー」は「アルゲリー」となるとか、そんなことばかりやって遊んでいる人たちです――失礼、研究をしている人たちです。人間の知覚とか感覚とか思考とか、そういったことにしか興味のなさそうな人たちが、人間の《心》に迫ろうとする――もうその時点で混乱してきます。

認知療法の黎明】

 しかしやはり学ぶべきことはきちんと学ばなくてはなりませんでした。認知療法(または認知行動療法)と呼ばれるものは、認知心理学者が心理療法に近づいて始まったのではなく、精神科医――とくに精神分析学を中心とする医師や、精神分析学を中心的課題とする心理学者たちによってはじめられたものだったのです。彼らは自らの手法に限界を感じ、さりとて行動療法にもしっくり来ないものを感じていましたから、新たな方法を模索していたのです。そして見いだされたのが、次のような考え方です。
「人はありのままの世界を観ているのではなく、その一部を抜き出し、解釈し、自らものとして『認知』しているのであって、その認知には必ず個人差があり、ゆがみがある。客観的な世界そのものと完全に一致することはないが、だからといって問題が発生することも、普通はない。ところがその「認知の歪み」が限界を越えて大きくなったり、環境の方が特殊で相反する度合いが大きく感じられたりした場合、生活そのものに支障をきたすことになる。もちろん世界は変えられないから、変えるべきはこちらの方である」
 こうした考え方の創始者のひとりはアーロン・ベックというアメリカの医学者・精神科医でした。

認知療法の基本的なやり方】

 認知療法における認知とはほとんどの場合言語化された思考」を指します。ことさら「言語化された」と断るのは、精神分析学が扱う「無意識」についてはここでは扱わないという強い方向性があるからでしょう。また認知が「言語化された思考」である以上、文章として記録できるはずだという信念にも基づいています。
 
 よく聞く認知療法の具体的なやり方として、何か問題が発生したときにその不快な状況を日記のように文章として記録するというのがあります。文章で書いた上に不快な気分(落ち込み具合や不安など)を数値化し、「10点満点で○点」といったふうに書くこともあります。
 その記録をもとに、医師はそう考えた根拠などを患者に問い、患者は答え、あるいは両者で対話しながら、患者を苦しめているものの見方考え方の偏りを、少しずつ修正していくわけです。
 もちろんそれは病院の診察室で行われる出来事で、他人の目に見えるものではありません。しかしそれとよく似た風景なら私はたくさん見てきました。ひとつは警察の取調室、あとはすべて中学校の生徒指導の場で見てきたものです。後者については、医師の位置に私がいました。

【警察の取調室の話】

 長い教員生活のとば口で、生徒と一緒に警察の取調室に入った経験は、結果的には私の財産となりました。もちろん推奨するものではありません。
 部屋は――10年ひと昔で4昔も昔のことですから当時のテレビドラマを参考にすればいいのですが、入り口のドアを別とすれば顔の高さに窓がなく、けっこう高い位置に鉄格子のついた小さな窓があるだけという、お決まり感じのものでした。
 小さなテーブルを挟んで椅子がひとつずつ置かれ、私は入り口近くに別の椅子を用意されてそこに座ります。笑ってしまったのはテーブルの上に置かれた電気スタンドが、アルミのシェードを被った刑事ドラマの定番そのものだったことです。何もそこまでテレビに合わせることもないのに、と逆の感想を持ったことを覚えています。

 若い女性警官が担当してくれました。私が何時間もの聞き取りを経て作成した「万引き(加害)一覧表」を見ながら、生徒と二人で調書を作成していくのです。用紙と鉛筆を渡して使い方を説明し、それからこんなふうに言います。
「では最初の行に、3マス空けてから『僕のやった悪いこと』と書きましょう」

 私はびっくりしました。優しい言い方ですが容赦がありません。言い訳や哀願するヒマもなく「僕のやった悪いこと」と書かされるのです。
 あとは一瀉千里・・・と言っても3時間もかかったのですが、ひたすら一人称で自分がやった「悪いこと」を淡々と書き連ねます。するとそばで聞いている私の脳裏には、その子が悪事を働いているときの様子が、映像としてありありと浮かんでくるのでした。
(この稿、続く)