カイト・カフェ

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「反省文という文化・現場検証のススメ」~指導助言の質を高める方法⑦

 人が反省し後悔するのは、論理のためではない。
 事実の積み重ねだけが罪深さを教えるのだ。
 そのために学校では「反省文」という文化が育ち、
 事実を見据える教育が行われてきた、
 という話。(写真:フォトAC)

 心の中にある不安や恐怖、怒り苦しみなどを文章にし、さらに点数をつけることによって曖昧模糊とした不安などを分析可能な“モノ”に変える、すると不安や恐怖は以前よりずっと小さくなり、輪郭もはっきりして対応可能なものに変化している――と、認知療法は教えてくれます。そこに現れてくるのは、自らが膨らまし尽くした幻影ではなく、すべて余計なものを削ぎ落した客観的な姿だからです。
 一昨日お話しした《警察署の取調室で万引きの調書を作成している生徒》の目に映ってきたものも、おそらく同じです。

【盗人の三分の理を剥ぐ】

 よく「いじめは100%、加害者の方が悪い」という言い方をしますが、少なくとも加害者の心の中で、《100%自分が悪いいじめ》などといったものはありません。
「盗人にも三分の理」というように、そこにはいくらでも多くの説明や言い訳がついて回ります。
「被害者にも悪いところがある」とか、
「みんながやっていた」とか、
「自分が被害者だったときはこんな程度ではなかった」とか・・・。

 万引きの方は立派な犯罪ですからさすがにやった側も100%悪いと思っているに違いない、そんなふうに考えるとアテが外れます。
「だって俺だけじゃないもの」
「友だちに誘われて仕方なくやった」
「他の連中に比べたらボクなんか、まだとても少ない方だ」
――そうした説明や言い訳は反省と後悔を鈍らせます。だから早い段階で是非とも子どもの心から剥ぎ取っておかなくてはなりません。

【事実の積み重ねが罪深さを教える】

 一昨日お話しした警察の取調室で私が学んだことは、そういうことでした。
 担当してくれた女性警察官は万引きの動機には目もくれません。聞いたところいでロクな話も出てきそうにありませんし、言い訳を聞けば罪が相対化されかねません。警察官が興味を示すのは何があったかだけです。
「何月何日の何時ころ、どこの店で何を盗んだか」
「そこに向かう前に誰と誰が相談し、どんな経緯があって盗むことになったのか」
「それぞれがどういう役割を負って実際にどう働いたのか」
「盗んだ品物はどうなったのか」
等々。それを丁寧に聞き取っていちいち確認し、文章に落としていく。題名がすでに「ぼくのやった悪いこと」なので、良い悪いの判断をする必要もありません。
 ただひたすら事実だけを書いていく――すると何が起こるのかというと、起こしたことの犯罪性・悪質性・深刻さ、自らの卑しさなど――ひとことで言ってしまうと「事態の罪深さ」が、鮮やかに浮かび上がり、ひしひしと感じられるようになるのです*1
 そこには罪の意識を相対化させる文言がひとつもありませんから、どうしてもそうならざるを得ないのです。

【反省文という文化】

 かつて学校には「反省文」の文化がありました。
 書き方には自然にでき上がった“書式”のようなものがあって、まずやったことをすべて正確に記述し、最後のところで反省の言葉を述べて、今後への決意表明をするという手順です。原稿用紙5枚とか6枚とか、小学生にはもちろん、中学生でもなかなか書けない分量を課すのはそれ自体が罰かと思っていたのですが、実際に書かせる側に回ったら意味あることだと分かりました。反省や決意表明の部分なんて大して書くことがないのです。原稿用紙5~6枚を埋めるには事実の部分を詳しく書くしかありません。そしてそれは認知療法や警察の取り調べの場で行っていることと、同じ効果を生み出すのです。
 
 学校教育の具体的な方法は経験によって生み出されてきます。日本の学校教育は近代教育だけでも150年以上の歴史があります。その中でいつの間にか警察と同じ手法に至り、認知療法の先駆けとなったにちがいありません。
 反省文の形式ばったやり方は同じ教員仲間からも揶揄されることがありましたが、これも子どもの作文能力に差があるからには形式を与えるしかないと、誰かが気づいたのでしょう。私はすばらしいことだと思いました。

【現場検証のススメ】

 しかし子どもたちの作文能力は、形式を与えても書けないほどに落ちてきました。十分な指導の時間がなくなったからです。作文を書かせるための指導の時間がなくなったのと同時に、作文を使った丁寧な生徒指導を行う時間もなくなりました。
 さらに言えば「反省文」はもともと、小学生も高学年以上なら何とかなったのですが、中学年以下だと正確に書かせることは困難でした。そこで私は小学校の教員になってからは「現場検証」を多用することになりました*2。実際にその場で何がどう行われたのか、誰が何と言ってどう反応があったのか等々が、私の脳裏に鮮やかに映像が浮かぶまで、現場で、しつこく聞きながら再現するのです。
 その目的は、もちろん教師である私が事態を正確に知るためでもありますが、同時に当該の児童生徒自身が「起きたこと」「起こしたこと」を客観的に見て、その罪深さを知るためです。そのやり方は、かなりうまく行ったと私は思っています。
(この稿、終了)

*1:いじめ事件から加害者の主観(言い訳・説明)を丸ごと外して加害事実だけを累積する――そこに現れる凄まじい残虐性に、耐えられる人間は多くはないと思います。

*2:

kite-cafe.hatenablog.com