カイト・カフェ

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「見かけほど自由でも奔放でもなかった昭和バブルの話」~「不適切にもほどがある」が突きつけるもの②

 ドラマが揶揄してみせる昭和後期の風俗。
 しかし見かけほど自由で奔放だったわけではない。
 当時の流行歌にみるセクハラもパワハラも、
 それぞれ時代の宿命を背負っていたのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【「ふてほど」にみる“性”の問題】

 「不適切にもほどがある」(TBS系列:金曜日、略称「ふてほど」)に限らず、ここ10年ほどは昭和を懐かしんだり「昭和あるある」をクイズ形式で紹介したりする番組がチラホラ散見していました。言うまでもなく私は「リアル昭和」を知っていますから懐かしむだけですが、令和に生きる人々の目に、例えばテレビ番組で女性のハダカが横溢している様子はどんな風に映るのでしょう?
 「適切にもほどがある」で吉田羊が演じる社会学者のように、眉をしかめ怒りに打ち震えるのでしょうか、それともその息子(坂元愛登)のように、胸をときめかせ羨ましく思うのでしょうか? 私はよく分からないところです。
 ただし私も、ドラマの中の息子少年のように、性的に奔放な古い時代に憧れを持った経験があるので、少年の気持ちはよく分かるのです。

【性にずるくお気楽な先代の時代】

 私よりひと世代上のおとなたち(昭和30年以前に青春を送った人たち)は、ある意味で私たちより遥かに放縦な世界を知っていました。何しろ公娼制度が残っていて、全国津々浦々に公的私的な売春施設があったからです。私の父親世代より上の男たちはそうした施設で性的な問題を処理し、そして――ここが重要な点なのですが――それと切り離した形で、別な場所では純愛を織っていたのです。ずるいですよね。
 大昔の純愛小説、「野菊の墓」だの「伊豆の踊子」だの「雪国」だの、あるいは「風立ちぬ」だの「天の夕顔」だの、そういったものを読んでいると、純愛の美しさに心惹かれるとともに(私などはひねくれ者なので)心の隅で「だけどこのころの学生、性的な重石は全部プロのところで抜いて来たんだろな」と呟いていたものです。
 面倒くさいことはすべて下層の女性たちに押しつけておいて、別の一群の女性を神格化して対象として「愛とは・・・」とかやっていたわけです。けっこうお気楽でずるい時代でしたね。

【昭和バブルの、男はつらいよ

 私たちの時代は違います。昭和32年(1957年)の売春防止法施行以来、「性」は突然閉ざされた神秘の世界になってしまいました。細かくちぎられた断片的な情報が順次チラチラと届くだけで、何がどうなっているのかさっぱり分からないのです。
 テレビは中途半端な情報しか出しませんし、本格的に調べようとすれば書店か図書館の書籍に頼るしかありませんが、その類の本は買うも借りるも勇気のいることでした。今の若者に比べて、私たちが餓えたオオカミのようにギラギラしていたのは、半分以上が情報不足による飢餓のためだったのかもしれません。

 私などはそうした強烈な飢餓感を抱えながら、他方で非常に観念的な文学少年でしたからとても苦しみました。好きな女性、仲の良い女友達と文学や芸術や社会についてじっくり何時間も話したいのに、考えていることとまったく無関係に、頭の隅や体の一部で蠢くものがあるのです。脳の中心部で哲学的な思考をしながら、心の片隅でザワザワしている下世話なものに始終気を取られている、そんな感じです。ほんとうに苦しくて、一時は知り合ったばかりの女性でも、
「キミの話に興味がある。キミとは心からじっくり話をしたい。キミの思っていることや考えていることにしっかりと向き合い、耳を傾けていきたい。けれどどうでもいいことなのに、頭の隅でチラチラして、オレに集中させないものがあるのだ。だから、頼む、愛しているわけでも結婚したいわけでもないけど、今夜はオレと寝てくれ」
と、言いはしませんでしたが、本気で土下座しようと思ったことさえあります。
 こんな苦労は親父たちはしなかったよな、と思うと、その点だけは羨ましくなりました(性的なことではなく、普通の女性と穏やかに話ができたという点です)。

【令和:安定の植物化】

 現代の子どもたちはまた違います。
 私の一世代下以降は、別の意味で「性」が横溢しています。インターネットがそれを可能としました。子どもたちはその気になれば、文字で、画像で、動画で、自分たちの望むだけの情報と知識を、簡単に手に入れられます。
 先ほど、
「私たちが餓えたオオカミのようにギラギラしていたのは、半分以上が情報不足による飢餓のためだったのかもしれません」
と書きましたが、秘密は暴露されると価値が半分以下にさがってしまいます。バーチャル空間で「性」を知り尽くし経験し尽くした若者が、今さらリアルの世界で経験を生かそうとしないのはよく分かります。現実世界はあまりにも複雑で面倒くさいからです。無知だから肉食獣みたいだった私たちと違い、現代の若者が穏やかな草食系でいられるのは、そのためです。
 私の父親世代とは違って、楽しいことは山ほどありますから「純愛」にかまけている余裕もありません。

 大人たちも「性」に対する興味を失い、いまや映画も「18禁」とあるのはまず確実に「暴力」のためです。かつての文学も三大テーマは「性」「暴力」「犯罪」でしたが、「性」は完全に抜け落ちたといえます。
 昭和にタイムスリップした「不適切にもほどがある」の少年君も、昭和の雰囲気が物珍しいから夢中になっているだけで、別に女性のハダカが見たいわけではないでしょう。

【流行歌にみる時代性】

 なお、先週の放送では昭和のヒット曲の中にある、今日では考えられないようなセクハラ・パワハラ表現が話題となりました。昭和はいかにダメだったかといった印象で語られますが、そうでもありません。

 沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」の「聞き分けのない女の頬を、ひとつ、ふたつ張り飛ばして――」はパワハラを越えてDVだと評価されましたが、女性を殴ったのは昭和の沢田研二ではなく、戦前の俳優ハンフリー・ボガード、通称ボギーです。だから「ボーギー、ボーギー、あんたの時代はよかったァ」なのです。昭和の男にそんなことはできません。

 ドラマの中では「重い」とされた石川ひとみの「まちぶせ」も悲しい女性の歌ではなく、誇りをもって背筋を伸ばし、「好きな男性にも絶対に自分から言い寄ったりしない、チャンスが見えても飛びつかない、必ず向こうから告白するよう仕向けてやる」と宣言する矜持の歌です。曲が短調で寂しげなのも、匕首を忍ばせる策略かもしれません。

 さらに言えばおニャン子クラブの「セーラー服をぬがさないで」は、セクハラ発言で女性をからかう男たちに対して「からかうのは勝手だけど、私たちはオジサンたちのはるか先を歩いているからね」と逆張りする女子高校生たちの、見事な挑戦状です。当時からそういう男性軽視の雰囲気があったのです。アッシー・メッシーと呼ばれ女性にかしずく男たちは、もう目の前に迫ってきていました。
 ただし、そうした雰囲気を救い上げ、歌詞にして儲けた秋元康は、やはり一枚上手を行くずるい男ではありました。
(この稿、続く)