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「多様性という硬貨の表裏」~世代間のすれ違う思いと接点②

 超高層ビルで開かれる企業対抗のど自慢大会。
 旧世代はその価値を信じて前のめりだが、そのまま下に降ろすことはしない。
 すでに多様性の時代、強く迫ればパワハラの誹りは免れえないからだ――。
 いや、しかし待て、多様性こそ古い価値を残すキー・ワードではないのか?
という話。(写真:NHK

 10月7日(土)の再放送で見たNHKテレビ『Dearにっぽん』「会社員フォーエバー~新宿高層ビル のど自慢大会」は、新宿三井ビルディングに入居する企業が49年前から行っている会社対抗のど自慢大会について紹介するものでした。コロナ禍を経て、今年は4年ぶりの開催だそうです。

【上司たちの恐怖・懐疑・不安】

 番組の前半を見てもっとも顕著に感じられたのは、若手に対する上司たちの気の使いようです。
 建設メーカーの常務は、
「出場することによって会社の一体感とか、コミュニケーションには絶対つながってる」
と強く信じながらも、
「あまり言うとパワハラになる」
と手を控え、部下に強く言えない。言えないまま時が過ぎてしまい、結局、自分が出場するハメに陥ってしまいます。

 比較的うまく事の運んでいるベネッセ・コーポレーションの女性編集長も、
「組織にいる間は組織の楽しみを味わわないともったいないと思っている」
と言い切っておきながら、
「前だったら『皆さんもっと参加して』『参加しよう』とか言っていたかもしれないですけど、今はさすがにそういうのはない時代」
と伸ばしかけた手を引き戻します。

 おとなしく控えめだと感じていた部下がのど自慢に出場すると聞いたIT企業の上司は、
「やらされていないかな、という心配から入りました」
 などと言い出す始末。ハラスメントだったらいち早く対応しなくてはならない立場なのでしょう。
 総じて「のど自慢大会」という昭和の文化を、令和の若手社員に被せることへの恐怖、懐疑、不安などが見て取れます。
 
 これが悪いことなら問題はないのです。除去すればいい。ところがここに出てくる上司たちは多かれ少なかれ、企業組織における「のど自慢大会」のような行事の価値を、気持ちのどこかで信じているから厄介です。多様化の時代にその、価値ある(と思われる)ものをどう扱っていいのか、みんなが迷っているのです。
 しかし答えはいたって簡単、まさにその多様性にこそにヒントがあるのです。
 続けて見てみましょう。

【のど自慢大会が終わって】

 上司や同僚と話せるようになりたいとステージに立った陰キャラの女性(木村さん)は、終わって、「頭真っ白でした。楽しいっていう気持ちが先行していて」と言いながら、
「何か、こういう木村もいるんだよって、知ってもらえたので――、なので皆さんにもっと話しかけてもらえるのかなと思います」
と期待の声を上げます。
 
 部下が応援に来てくれるか心配していた建設会社常務のステージにも、多くの応援が押し寄せます。扮装や応援道具が不ぞろいなのは、自主的な応援団がいくもつくられたからでしょう。
 常務は言います。
「部署を越えて来てくれるのはほんとうに嬉しいし、やはりこののど自慢に出るからみんな来てくれるのであって、やはり誰か出ないと始まらないので、続けてきて良かったと思います」
 
 ベネッセの女性ボーカル“まりりん”は、
「上の人たちの世代が《会社はチームとして一つになれると思っている》《めちゃ信じている》というのを本気で言っているのを聞いて、自分の力だけでは見ることのできなかった景色を見られるのは楽しいだろうな(と思いました)」
 そう言ってステージに向かいます。
 結果は他の2組とともに予選敗退。まりりんは一緒にデュエット曲を歌った中年男性ボーカルの胸に額を当てて泣きます。男性も、
「ほんの一カ月前まで知らない存在がこうやっている。やっぱのど自慢の力って凄いんですよね。これ以上喋るとオレも泣いてしてしまう」
と、目を潤ませ、“まりりん”もまた、
「チームで出て良かったなって・・・」
 そう言いながら再び涙を浮かべます。

【さらにその後】

 大会の翌朝、常務は社内報に感謝の言葉を書きながらしみじみと語ります。
「笑ってもらってもいいし、それが、みんなが少しでも元気になることに通じたら、それはもっと最高ですね」
 
 ベネッセでは“まりりん”が若手社員を誘って飲み会を企画し、経営トップと語り合ったようです。上司である女性編集長への報告では、
「嫌って思われないかなと思いながらも、(飲み会)やりました」
 それに対して上司は、
「凄いじゃない、私なんて若い時はもっと格好つけて(下を向いて)いたわよ」
「小さなつながりを、自分のタネとして大切にしようって(思いました)」

【多様性という硬貨の裏表】

 最近のテレビや新聞・雑誌は、しばしば世論をインターネットからとってきます。X(旧ツイッター)やYahooニュースのコメント欄から一般の意見を拾うのです。
 現状に対する不平や不満、思い通りにならない社会に対する恨みつらみ、重く圧し掛かる旧時代の価値への嫌悪――ネット上の書き込みの多くがそうした怨念によって書かれ、マスコミが増幅して社会に伝えます。あたかもそれが多数派、インターネットを使える若者世代の世論かのように――。

 しかし考えてみてください。よく知られているように、ネットはかなりバイアスのかかった特別な世界です。現状に満足している人、少なくとも我慢できる人、そして本格的に忙しい人たちはあれこれを書き込んだりしません。それにもはや「インターネットが使える人」が若者とは限らないのです。それなのにうっかりすると、私たちはネットやマスメディアが伝える”世論”をそのまま信じてしまいます。
 ベネッセの編集長の、
「若い20代の人に話を聞くと、組織より自分。個人主義というか『自分が―』という考え方をするところが多くて、自己責任みたいな言い方というか、『それぞれ個人のせい』みたいな感じ」
も《先入観が生み出した一面の事実でしかない》ということだってあります。若者の無関心を言った「三無主義(無気力・無関心・無責任)」は1970年代のことですし、「しらけ世代」は1980年代、「新人類」はさらにその下の世代です。つまり若者の個人主義など、大昔からあったのです。でも全員がそうであったわけではない。

 今も同じです。若者が必ずしも全員、昭和・平成の価値観に否定的なわけではありませんし、中にはそうした古い価値観にどっぷりはまっている若者もいるはずです。
 それが《多様性》という硬貨の、もう一つの側面だからです。
(この稿、続く)