カイト・カフェ

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「繊細な、あまりにも繊細な・・・」~「不適切にもほどがある」が突きつけるもの①

 TBSのドラマ「不適切にもほどがある」の評価が高い。
 特に10代の女性と50代以上で評判のこのドラマ、
 私たちが夢中になるのはあまりにも鮮やかに、
 私たちの不審と不安を表して見せたからだ。
という話。(写真:フォトAC)

【「ふてほど」圧勝】

 2024年冬ドラマも、最低でも2周以上して、どうやら評価も定まって来たようです。民放で言えば宮藤官九郎の「不適切にもほどがある」(TBS系列:金曜日、略称「ふてほど」)*1がコア視聴率で圧勝の様相で、SNSでも大きな評判になっています。
 私も2月2日の当ブログ『「異端の主人公たち=昭和人とASD自閉症スペクトラム症)」~2024年の冬ドラマ、私はこれを観る』*2で扱いましたが、私のような人間からすれば、日ごろの疑問とうっ憤をよくぞテレビで晴らしてくれた、といったところです。
 晴らしてもらったうっ憤というのは、先週金曜日まで4回あった放送の、サブタイトルにあるような内容です。第一話から並べるとこうなります。
第一話「がんばれって言っちゃだめですか?」
第二話「一人で抱えちゃだめですか?」
第三話「カワイイって言っちゃだめですか?」
第四話「既読スルーしちゃだめですか?」
 そして第五話(今週)は「隠し事しちゃだめですか?」になるみたいです(予告)。
「隠し事~」はこれからですし、既読スルーの件は(何が問題なのか)よく分からないので脇に置いておくとして、一話から三話までの内容はとても納得できるところです。

【多用される“人に優しい言葉”】

「これ以上ないほどがんばっている人間に“がんばれ”というのは酷だ」
「“がんばれ”といわれるたびにプレッシャーやストレスを感じる」
「部下や子どもに“がんばれ”ということ自体がパワハラ
――最近、特に言われることが多くなった言葉です。

 これと逆なのが、
「今のままのきみでいい」
「生まれながらその子が持っている“良さ”を大切にする」
という考え方。
 さらに重ねて、
スマホで電卓を持ち歩ける時代に、子どもたちが計算練習に時間を使わなければならない意味は?」
「キーボードを叩けば正しい漢字がきちんと出てくる時代に、なぜ書き取りをしなくてはならないのか?」
と、基本的には子どもや若者たちに「がんばらせないこと」に価値が置かれ、これまで当然とされてきた”努力”に対する疑問が、次々に投げかけられます。
「調査は検索、作文はAI、栄養管理はサプリメント
 それでいいじゃないかといった話も出てきます。

 文明というのは人間が苦労して行ってきたことを機械やシステムに代行してもらう仕組みですが、いよいよ何の教育も訓練も鍛錬もしないまま――別の言い方をすれば「何の力もつけないまま」、一生を生きて行ける時代が近づいているのかもしれません――と、そうですか? 果たしてそうでしょうか? そんな雰囲気、感じ取れますか?

【私たちは子どもたちの未来に、どんな社会を用意したか】

 私たちは未だ子どもたちが何の力もつけないまま、生き生きと一生を過ごせる社会を構築していません。べーシック・インカムの話も出ていますが、それとて最低限度の生活を保障するもので、月々40万円も50万円も渡して自由に遊んで暮せるようなものではありません。最低限度の生活を保障するからその上で自由に働き、自らの才覚と努力でさらなる収入を得るよう促されているだけです。
 
 もちろん常に「最低限度でいいや」ということであれば、何の実力もなく努力もせずに生きて行くことはできるかもしれません。しかし中島敦の「山月記」の主人公が嘆いたように、
「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」
のです。遊んで暮らすといっても「人生100年時代」、最低限度の生活ができる程度の収入で、どうやって楽しく遊び続けていけるのでしょう? 100年も。そもそも「パンのみにて生きる生活」って、あるのでしょうか?
――それが私のような昭和人(びと)の不審と不安なのです。

【繊細な、ああ、あまりにも繊細な】

 実は「がんばれと言ってはいけない」も「そのままの君でいいよ」も「生まれながら持っている“良さ”」も、すべて言葉足らずの説明不足なのです。
 世の中には「がんばれ」と言ってやらなければならない人も「がんばれ」と言われると力の出る人も、そう言って励ましてほしい人も、山ほどいるのです。
 「そのままの君でいいよ」も「社会や家族の中に生きる場を得るために、特別な何かをする必要なんてないんだよ」という意味であって、「今のまま、まったく成長しなくてもいいんだよ」とか「この先の人生に学ばなくてはならないことなんか、ひとつもないんだよ」と言っているわけではありません。
 
 “危機管理のさしすせそ”の第一は「さ=最悪の事態に備えて」ですが、自分より弱い者、年少の者、最も傷つきやすい者を基準として、相手を傷つけないため、非難されないため、パワハラと糾弾されないために一律に遇するのは、あまりにも単純でむしろデリカシーに欠ける行為と言えます。
 現代の基準で私たち昭和人はとてつもなく乱暴で無神経らしいのですが、令和人(びと)は過剰に繊細で傷つきやすく、臆病です。
「こんな時代にするために、オレたちがんばって働いてきたわけじゃねェよ」
 そう叫ぶ主人公小川先生の言葉は、私たちの言葉でもあります。
(この稿、続く)