第二次大戦後、学校は二つの敵と大きな戦いを続けた
その結末はあっけないものだったが
そして今 第三の敵との戦いが始まりつつある
しかもその戦いは 親たちが持ち込んだものなのだ
というお話。「生徒指導」が対象とするのは、ひとつには少年非行や犯罪あるいは不登校といった個々の問題、そしてもうひとつはほとんどすべての児童生徒に関わる問題です。全員が等し並みに危険に曝される状態では、効果は薄いものの、全体指導というかたちで辛抱強く戦うほかはないのです。
昭和の戦い――対テレビ戦
昭和28年(1953年)、NHKが本格放送を始めたとき、テレビはまだ学校の脅威ではありませんでした。
サラリーマンの初任給が1万円前後の時代に受像機は30万円もしましたからほとんどの家庭では買えなかったのです。NHKの開局した2月の登録台数はわずか866台、8月の日本テレビ開局時ですら3500台です。家でテレビを見るどころか、街で受像機というものを目にすることすら稀だったのです。
昭和34年(1959年)に今上天皇が結婚された際には、田舎の電気屋の前にも黒山の人だかりができましたが、まだ家庭には入っていません。
「東京オリンピック(昭和39年―1964年)までには買いたいものだね」
が庶民の合言葉でした。しかし5年を待たずして、一般家庭にもテレビが入り始めます。まさに高度成長期だったからです。
しかしそれでも学校にとってテレビは問題になるようなものではありませんでした。私の住んでいたような田舎では、視聴できるのがNHKの総合と教育(現在のEテレ)、そして民放が1局だけですから子どもの見る番組がほとんどないのです。
ネットで調べると、初期の子ども番組としては
昭和33年(1958年)月光仮面 遊星王子
昭和34年(1959年)ジャガーの眼 少年ジェット 七色仮面 まぼろし探偵
昭和35年(1960年)アラーの使者 怪傑ハリマオ ナショナルキッド 海底人8823(ハヤブサ)
などがありますがそれは都会の話。田舎ではその半分も放送されていなかったのです。
強いてそれでも問題があったとすれば、剣士ものに影響されてチャンバラに夢中になった子どもたちが棒で叩き合ってケガをしたとか、中学生が覚えたてのプロレス技をかけ合って骨折させてしまったといった程度のものです。
ところが昭和40年代半ば(1970年前後)に東京12チャンネル(現テレビ東京)が一般放送を始めて首都圏にキー局が五つ揃ったころから事態は変わってきます。視聴率競争が激化して番組内容に大きな変化が生まれ始めるのです。
大宅壮一が「一億総白痴化」という言葉を使ったのは1957年のことですが、それから10年ほど経って、予言が実現し始めたのです。
大人と子どもの垣根が外される
もちろんそれ以前も「11PM」(1965年~1990年)をはじめとする大人向きの番組はあって、今では信じられないような過激な表現もされていたのですが、タイトルの示す通り子ども番組との棲み分けはしっかりしていて、小中学生の起きているような時間には放送されなかったのです。
その殻を破ったのは昭和44年(1969年)から始まった「コント55号の裏番組をぶっとばせ」(日本テレビ)でした。この場合の「裏番組」はNHKの大河ドラマ(この年は「天と地と」)のことで、55号の軽妙なコントも注目されましたが、本当に破壊力があったのは坂上二郎と女性タレントがじゃんけんをして、負けた方が一枚一枚服を脱いでいくという「野球拳のコ-ナー」でした。
公開の場で女性タレントがあわや全裸になってしまうかもしれないという設定は視聴率をうなぎ上りに引き上げ、「裏番組をぶっとばぜ」のタイトルの通り、夏には「天と地と」を抜き、それまで親と一緒に不承不承歴史ドラマを見ていた子どもたちも喜んで「野球拳」を見て学校で真似したりするようになったのです。
もっとも「裏番組を~」自体の影響力はかなり限定的だったとも言えます。子どもへの影響を心配した保護者からの非難を受けて、番組自体がたった一年で終わってしまいます。
それに代わって夜の8時台を席巻したのはドリフターズの「8時だョ!全員集合」(TBS)でしたが、これは最初から子どもの視聴を前提としていたという点でより悪質だったと言えます。
子どもに見せるストリップ、デブはイジメてかまわない
毎週、各地の劇場・ホールから中継される公開生放送が基本でしたが、会場にはキャーキャー叫ぶ子どもたちの声が溢れます。
大掛かりな舞台装置を使った前半の大型コント、ゲスト歌手の歌を挟んで「少年少女合唱隊」などのショートコント、そしてエンディング。
ショートコントでは「ヒゲダンス」のように、今もときどき使われる優れたものもありましたが、加藤茶がストリッパーに扮して「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」と艶めかしく声掛けするのを子どもがギャーギャー喜ぶ姿は、やはり異常でした。子どもは訳も分からず喜んでいたのだと思いますが、そうしたものを子どもたちに提供していいと考えた当時のテレビマンたちの倫理観には呆れます。
自分たちがどんなに子どもを汚しても、学校が何とかしてくれるとでも思ったのでしょうか?
個人的には「デブで、のろまで、抵抗しない高木ブーには、何をやってもかまわない」という形式のコントに、私は非常に強い嫌悪感を持ちました。そのTBSは1994年のいわゆる「大河内清輝君いじめ自殺事件」の際には、厳しく学校を断罪したマスメディアのひとつです。
「なぜ、学校はこれほどのいじめを発見・止めることができなかったのか」
報道局の方ではそう強く訴えても、制作局の方では相変わらず「デブで、のろまで、抵抗しないものには何をやっても構わない。ヤツらをイジメる様子は、みんなで笑って見ていればいい」とメッセージを送り続けたからです。
視聴者の年齢に配慮することなく目の前に突きつける性的なイメージと「弱い者はイジメてもかまわない」というメッセージ。
それは「バカ殿シリーズ」を挟んで「スーパーJOCKEY」の熱湯ブロなどに引き継がれ、長く子どもたちに影響を与え続けました。
それだけでもテレビの罪は重い。
あっけなく、戦いは終わった
「テレビと戦える子をどう育てるか」は、昭和後半の学校で継続的に追究された主題でした。
番組から受ける悪影響はもちろん問題ですが、すべての子に等しく訪れたのは、勉強や睡眠の時間が奪われるという問題でした。
テレビのない時代、私たちは呆れるほどの早寝早起きでした。
小学校1年生の私など、午後6時半から始まる15分間のラジオドラマ「一丁目一番地」を聞き終わると眠ったものです。その代わり朝も早かった。
今どき、午後7時前に床に就くのは乳幼児くらいなものでしょう。
少し高学年になると就寝時刻は9時くらいまでに遅くなりますが、することがないので勉強をするか本を読むかといったふうになってしまいます。昔の子どもの読書量の多さは、退屈に支えられている面もありました。
しかしテレビ時代になると、小学生の中にも9時をすぎないと勉強の始まらない子も出てきます。
学校の教師は一方でテレビの発する性や暴力と戦いながら、もう一方で子どもの学習時間の確保に努めなくてはなりませんでした。15年以上に渡って――。
しかしそのテレビとの戦いは、勝敗も決まらぬうちに、あっけなく終わってしまうのです。
(この稿、続く)