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「かつてテレビは学校の主敵だった」~テレビ放送70年目の誕生日に②

 テレビの変遷はハードの進化だけではなかった。
 かつてテレビは学校の主なる敵だった。
 そこで扱われる軽文化が、学校教育と相いれなかったからだ。
 しかし学校とテレビの戦いは、意外な形で終わってしまったのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【かつてテレビは学校の主なる敵だった】 

 コンピュータゲームが出てくるまで、学校教育の主敵はテレビでした。現在でもそうですがテレビは子どもの学習時間を大量に奪いますし、ドリフの「8時だョ!全員集合」に代表されるテレビの文化は学校の価値と相いれない、というか真っ向から対立する不倶戴天の関係にあると認識されたからです。

 いまの価値観だとむしろ鮮やかに見えてくるのですが、ドリフの笑いの一部は確実に「弱者をいじめて弄ぶ強者の高笑い」であり、「女性を性的な対象といたぶる男たちの卑しい笑い」、つまりセクシャルハラスメントそのものだったのです。
 学校は生徒が教卓に横たわって「ちょっとだけよォ~」と誘いかけたり、抵抗しない高木ブーをいたぶる場面の真似をするのを好みませんでした。やってはいけないことだと教えるべきだと考えていたのです。

 志村けんさんや加藤茶さんを昭和の爆笑王のように持ち上げる人がいますが、私はそう思いません。禁忌を犯す破廉恥さえあれば、多くの芸人に可能なことでした。

【テレビは社会を根本から変えた】

 テレビは社会の在り方を根本から変えてしまいました。
 学校教育にとって非常に有益な道具となるはずでしたが、その有益さが証明される前に、先に書いたような圧倒的な弊害が押し寄せてきたために学校は戦わざるを得なくなります。それは別の敵が去って新たな敵が生れたというような話ではなく、ただ単に加算された困難でした。単純に仕事が増えたわけです。
 
 家庭からは会話が消えました。
 テレビが登場するまでは、食卓を囲んでラジオをつけっぱなしにしても、目のやり場は家族にしかなく、そのための気まずさもあって互いによく話をしたものです(しゃべってはいけないという家訓の家もありましたが)。
 しかしテレビが入ってからは視線を繋ぐ場所がテレビひとつとなり、皆そちらを見ながら食べるようになります。気まずさもありませんから急いで食べることもなくなり、いつまでも食べている家族も出てきます。食事の時間が長くなり、母親を苛立たせます。
 
 宵っ張りが増えました。
 テレビの入る前、小学校1年生だった私は、冬は午後7時に眠っていました。総じて陽が落ちたら寝て、陽が昇ったら起きる江戸時代の生活は継承されていたのです。しかしテレビが入ると寝る時刻は1時間以上後ろ倒しになりました。現代の小学生はさらに遅く、10時過ぎまで起きている子も珍しくありません。大人もそれに合わせて遅くなります。日本人全体が遅くなっているのです。

【体と心に与える影響】

 テレビ放送の始まってわずか4年後の1957年、社会評論家の大宅壮一は早くも「一億総白痴化」という概念を打ち出しています。読書だったら文字を読んで、頭の中にイメージを浮かべて、論理を辿ってと能動的な活動ができるのに対して、テレビは単にぼんやりと映像を眺め音声を聞くだけだから人間の想像力や思考力を低下させてしまうというのです。テレビ以前に比べて現代人の想像力や思考力が低下しているかどうかは分かりませんが、「ばか殿」や「電線マン」のことを思い出すと不安にはなります。

 しかし私は日本人がバカになることより、暴力的になったり過剰に性的になったりすることの方を怖れます。テレビで毎日何件もの殺人事件を目撃し、何人もの遺体を目に焼き付け、しばしば過剰に性的な刺激を受けて不要な知識を植え付けられる、そうした育ちをしてきた人間が暴力や性に親和的になるのは当たり前のような気がするのです。いかがでしょうか。

 あるいは、テレビの黎明期には目が悪くなると言われましたがどうだったのでしょう。いまは視力低下の原因になりそうなことが多すぎてテレビばかりを悪者にするわけにはいかなくなっています。しかし影響が皆無ということはないでしょう。
 
 そう言えば昔、「カウチポテト」という言葉がはやったことがあります。
 寝いす(カウチ)でくつろいでポテトチップをかじりながらテレビやビデオを見て過ごす生活スタイルのことです。その状況を無上の喜びとして精神的な安らぎを得る一種のひきこもり――そうした生活が精神にどのような影響を与えるかは分かりませんが、身体には悪そうです。塩分の過剰摂取、脂肪分の過剰摂取、栄養の偏り、運動不足、肥満。少なくとも子どもにはさせたくない生活です。

 ある研究者はテレビから受ける刺激と発達障害の間に関連性があると主張しています。別の研究者は長時間テレビを見る子どもは言語の発達が遅れ、表情が薄くなると言っています。テレビがコミュニケーションの道具としては一方的過ぎて、反応する必要がないからだそうです。

 しかしこうした研究結果は一部のものであって、テレビの利便性や経済効果を越えて人々に承認され、共有されるようなものではありません。したがって現在もテレビ放送は存在し続けているのですが、それでも表現はかなり抑えられるようになってきています。
 かつての「8時だョ!全員集合」をそのまま再放送することは不可能でしょう。「元祖ドッキリカメラ」や「11PM」を同じ台本で再現することもできません。
 テレビドラマで一週間に殺される数をすべて数えたという研究もありましたが、現在はかなり減っていることでしょう。

【テレビが問題とならなくなる日】

 ただこうしたテレビの弊害は、今ではほとんど問題になっていません。
 テレビの力が相対的に衰えたのも理由のひとつですが、勉強を妨げ、心身の健康を侵す悪魔のような道具はいくらでもあるからです。ゲーム機やインターネット、動画配信などが普及すると、テレビはそうした誘惑の一部となってしまいました。
 かつて「テレビ(の誘惑)と戦える子をどう育てるか」が教師のひとつのテーマでしたが、こんな形でテレビが主役の座を降りるとは、全く想像もできないことでした。

(この稿、終了)